第2話 煮込みうどん

 どんぶりいっぱいに装われた煮込みうどんが、カウンターに二つコトリと置かれたタイミングで、お腹がグーっと鳴った。


「一緒に食べてもいいですか?」

 リスさん(勝手にあだ名を付けた)は、私の返事を待たずに隣に座った。小さい彼女がカウンターの椅子に座ると、足が宙にぶらぶらと浮く。身長が150センチもなさそうだ。私は170センチあるので、カウンター席でも床に足が着く。


「どうぞ」

 とホカホカのおしぼりをわたされた。

「ありがとう……ございます」


 リスさんはずいぶん若く見える。二十代だろうけど、ファンデーションを塗っていない肌は、高校生みたいにツルツルしている。でも、お店を閉めているということは、店主なんだろうか。


 おしぼりで手を拭くと、すっかり冷え切っていた指先に熱が戻ってきた。出汁のいい匂いがする。さっきまでストレスマックスで、肩も顔もガチガチに固まっていたのが、ゆるゆると解けていく。


 彼を思い出した。ソファで一枚の毛布の中に一緒に包まり、彼の肩に頭を乗せると、いつまでもぬくぬくと暖かくて、自分が猫になったような気がした。


 ぼんやりしていると、隣に座った彼女が、早速ズルズルとうどんを食べ始めた。

 それから「うん、おいしい」と確認でもするように、うどんに向かって言った。


 ハッと我にかえる。死ぬほどお腹が空いてたんだった。食べよう。

「いただきます」

 手を合わせてから、割り箸をパチンと割る。


「あ、『いただきます』いうの忘れてました」

 リスさんも「いただきます」と手を合わせると、ふふと笑って、食べるのを再開した。


 うどんは、予想以上においしかった。塩が控えめなのに、出汁がよく効いていて味がしっかりしている。くたくたに煮てあるうどんが汁をたっぷりと吸っていて、噛むとじゅわっと口中に旨みが広がった。


「これ、すごくおいしいです。豚汁にうどん入れたみたいな味ですね」

 私がそう言うと、リスさんは目をくりんと見開いて、うふふと大きく笑った。そうすると、右ほほに笑くぼができた。


「その通りです。残り物の豚汁に、うどんを入れて煮たんです」

 私もつられて、ふ、と吹き出してしまった。

「そっかぁ、ですよね。そのまんまですもんね。あはは」


 なんでか、すごくおかしい。おかしくて笑ってしまう。リスさんも笑っている。一緒に笑っていると、つい泣きそうになって、あわてて鼻をすすった。


「いつも、余り物で適当にまかないを作って食べるんです」

 リスさんはニコニコとしゃべりながら、スピードを落とさずにうどんを食べている。


 私もうどんに集中した。こんにゃく、油揚げ、大根、人参、ごぼう、豚肉。夢中で食べた。熱くて鼻水が出る。鼻をすすりながら、食べ続けた。


 薬膳というものがあるけれど、これこそがそうなんじゃないかという気がする。

 食べれば食べるほど、心も体もあったまって、癒される。胸にしみる。


 うどんも具も全部食べて、汁の最後の一滴まで、どんぶりを両手で抱えて飲み干すと、はーっとお腹から大きな息が出た。


「ごちそうさまでした」と手を合わせると、リスさんはすでに厨房で自分の食器を片付けていて、「どうぞ」とほうじ茶を二つカウンターに置いた。


「あ……ありがとうございます」

 恐縮して、カウンターに額がつくくらい深く頭を下げた。すでに閉まっているお店で、こんなサービスを受けられるなんて。


「ついでですから」

 リスさんははにかむように笑うと、またせっせとカウンターまで戻って来て、私の隣に座った。


「あ!」とリスさんがいきなり大声を出して、驚いた。

「お酒のほうがよかったですかね……?」

「え?」


 私の返事を待たずに、リスさんが椅子から立とうとしたので、慌てて止めた。

「大丈夫です。お酒、要らないです!」

「ほんとですか?」

 つぶらな瞳がきらりと輝く。

 なにこの人。むちゃくちゃかわいいんですけど。ぎゅーっとしたくなる。


「もう閉店ですし、お酒はまた今度飲みに来ます。絶対来ますね。でも、今日はもう大丈夫です」

「そうですか……?」

 リスさんは、まだ疑わしそうな目を向けている。


「はい。私、おうどん食べさせてもらって、心底ほっとしたっていうか……。すごく元気になりました」

 リスさんの顔がパーッと明るくなった。と思うと、顔がどんどん赤くなって、リスさんは両手でほおをおおった。


「やだ。ごめんなさい。なんか、あの、恥ずかしい。いや、嬉しいです」

 リスさんの反応に、こっちが戸惑ってしまう。そんなに変なこと言ったっけ。

「あの……、私、ここをそういうお店にしたかったんです。お客さんがほっとして、元気になるようなところに」


 心臓をキュッと掴まれた気がした。なんて真っ直ぐなんだろう。夢があって、それを自分の手で叶えていて。こんなに若いのに。いや、若さゆえか。

「店主さんなんですか? いや、えっと、すごくお若いから」

「ええ、まあ。いろいろあって。えーと、なんだっけ、じゃくはいものですが」

 じゃくはいもの。若輩者か。いろいろってなんだろう。


「経営とか、ほんっとダメで。ナベさんがいないと。あ、ナベさんは、このお店で働いてる人で」

「ああ、あのおっきくて……」

「そうです! あの巨人です」

 リスさんがおかしそうに笑う。笑くぼがクッキリ見えた。しかし巨人とは。


「体は大きいですけど、物腰が柔らかくて雰囲気が優しいですよね。なんかこう、押し付けがましくなくて。笑顔もすてきだし」

「ええ!? そうですか? あんな強面で。無口だし。しゃべったら怖いし。お客さんに逃げられたらどうしようとか思ってたんですけど」

 リスさんは、怖いものでも見たような顔になっている。同じ人の話をしてるんだろうか。


「このお店、彼以外の店員さんっています?」

「いえ、私と彼の二人で回してます」

「……怖くないですよ、彼。ぜんぜん怖くないです。むしろ優しそうなイケメンです」

「イケメン……」


 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。そんなに驚くようなことなのか。客観的にイケメンの部類に入ると思ってたけど。リスさんとどんな関係なんだろう。気になる。


「あ、あと、私は若輩者ですが、そんなに若くないです。小さいので、中学生とたまに間違われるんですが、成人してます」

「中学生って……。ちゃんと二十代に見えますよ」

「ふふ。たぶん、お客さんと同い年くらいですよ」

 リスさんがいたずらっぽい顔になる。


「それはないです」

 即答した。リスさんほどではないが、私も若く見られる。美容に手間とお金をかけているからだ。


「私、三十五歳ですよ」

 リスさんが、今度はゾンビでも見たような顔になった。

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