食堂『まどか』のふつうのご飯

かしこまりこ

煮込みうどん

第1話 煮込みうどん

 うわーん! と、大声で泣いてしまいたかった。


 さっき買ったばかりのプレゼントを、電車に置き忘れてしまったのだ。お気に入りの傘と一緒に。


 駅を出て、さあ帰ろうとしたところで気がついた。

 真っ暗な空からパラパラと降ってくる霧雨が、すっかり化粧の崩れた顔を濡らす。まわりの人たちが、次々に傘を差して去って行く。みんなの息が白い。私もコートの襟をぎゅっと前で合わせた。


 仕事用のバッグが肩に食い込み、一日中立ちっぱなしだった足はパンパンだ。今日は仕事が死ぬほど忙しく、終わったら急いでデパートへ向かった。プレゼント選びに閉店ギリギリまで迷ってしまったので、昼も夜も食べ損ねたお腹はペコペコで、目が回りそうだ。


 親友の美由紀に会うのは明日なのに。


 一ヶ月前に子どもを生んだばかりの美由紀と会うのは、ほぼ二ヶ月ぶりだ。そのために買った出産祝いを電車の中に忘れてしまうなんて。もっと早くプレゼントを買っておけばよかったのだ。


(駅に問い合わせればいいの? そんなことより、お腹が空き過ぎてたおれそう。早く家に帰りたい)

 暗くて寒い、私の狭いアパートを思い出した。


(そうだった。今日も、ひとりだ。帰っても、ただいまを言う人はいないんだ)

 下を向くと、下ろしたてのパンツの裾に泥が跳ねているのが目に入って、涙がこぼれそうになる。


(消えたい)


 一瞬、そんなことを考えてしまった。寒い。疲れた。お腹が減った。ここじゃないところにいたい。でも、あの部屋には帰りたくない。


 表面張力で、ギリギリ保っていた液体が、最後の一滴であふれ出てしまうように、私の涙腺も崩壊しそうだ。


(そうだ、あのお店へ行こう)

 駅から歩いて五分のところにある食堂を思い出した。

 大きな円の中に『まどか』と店名が書いてあるのれんが目に浮かぶ。


 オシャレでも高級でもないお店だけど、落ち込んでいる時や、疲れている時に行きたくなる店だ。一人で食べても浮かないし、気を使わなくていい。店員さんの感じが良く、ほどよく放っておいてくれる。なにより、ご飯がおいしい。普通の、お家で作るようなご飯が、ちょっとびっくりするくらい、ちゃんとおいしいのだ。


『まどか』へ行こうと思いついたら、心がほんのり暖かくなった。

 普段はカロリーを気にして食べないカツ煮を食べよう。それから、デザートに何か甘いものも食べよう。今日は、自分を甘やかそう。


 目尻に涙を少し溜めたまま、唇をギュッと結んで、『まどか』を目指して歩き始めた。小雨の中、傘がないので、コートがじっとりと夜の水気を吸っていく。砂漠のオアシスを目指す旅人のように、コートで顔を覆いながら一心に歩いた。


 五分ほど歩いた頃、嫌な予感に見舞われた。

 灯りが見えない。いつもだったら、このくらいの距離からでも、ほんのり温かそうな灯りが見えるのに。


 もし『まどか』が閉まってたら、死んでしまうかもしれない、なんて大げさなことを思ってしまった。


 彼のいない、あのガランとした部屋に、空腹のままトボトボ帰って行くことを思うと、絶望の二文字で自分が黒く塗り潰されてしまうような気さえする。


『まどか』へ着いた。軒先きの明かりが消えている。

『閉店』のプレートがかかった扉の前で、私は突っ立ったまま、動けなかった。


 限界だ。立ってられない。足が痛い。

 その場にズルズルと座り込み、両手で顔を覆って泣いている自分を想像した。

 そんなことはできない。服が汚れちゃうし。大人なんだし。


 カチャカチャ、ゴン。バタン。

 誰かが片付けをしているような音がする。

 もしかしたら、さっきまで開いてたのかもしれない。まだ九時をちょっと過ぎた頃だ。


 いつもはもっと早く来るから、こんなに早く閉店するなんて知らなかった。

 閉店時間くらい、調べてから来ればよかった。首が折れるんじゃないかってくらい頭を垂れると、うう、とうなり声がもれた。


 その時、ガラっと勢いよく扉が開いて、思わず「ぎゃ!」と短く悲鳴を上げた。

「ひゃっ!」と中から出てきた女性も、私の悲鳴に驚いて叫んだ。

「ご、ごめんなさい!」

 とっさに頭を下げた。


「いえ、こちらこそ……」

 クリクリした目を向けて、女性が私の顔を見つめた。

 女性は大きなゴミ箱を持っている。片付けが終わって、ゴミを出すところだったのだろう。


「もう閉店ですよね。ほんとごめんなさい、驚かせちゃって。また今度来ますね」

 自分にできる精一杯の大人な態度で微笑むと、店を後にしようとした。


 その時、ぐい、と腕をつかまれた。

「え?」

 驚いて振り向くと、女性が真っ直ぐに私を見ている。

 リスみたい。目が大きくて、体が小さい。


「中に入ってください」

 女性は、有無を言わせない調子でそう言うと、私をぐいぐいと店の中へ引っ張りこんだ。


 促されるままカウンター席に座り、バッグを足元のバスケットに入れると、女性がコートをハンガーにかけてくれる。肩が急に軽くなった。女性は、奥のほうへ引っ込んだかと思うと、すぐにタオルを持ってきてくれた。ちょこまかと一生懸命に動く様子が、やっぱりリスのような小動物を彷彿とさせる。


「どうぞ」

 タオルを差し出されて、ふと我に返った。

「あ、あの……ありがとうございます」

「寒くないですか?」

「いえ」

 寒くない。暖かい。でも、もう閉店してるのに。


「煮込みうどん、食べますか?」

 リスみたいな女性が言った。

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