第5話 煮込みうどん

 翌日も雨は降り続いていた。リスさんにもらったビニール傘を差し、家を早めに出て、駅へと向かう。一晩経って冷静になり、電車に置き忘れた傘とプレゼントについて、駅に問い合わせてみることにしたのだ。


 私の忘れ物らしきものがシステムに登録されているのが見つかり、終点の駅で保管されていると駅員さんが教えてくれた。身分証を持って駅まで行けばすぐに受け取り可能だという。


「え!? 本当ですか? ありがとうございます!」と嬉しくて大声を出してしまい、担当してくれた駅員さんが苦笑いをしていた。


 私が電車に置き忘れてしまった傘は、一つ一つ、職人さんが手作りしたもので、三万円近くした。二千円も出せば、それなりにかわいい傘が買える。そして私は、よく傘を置き忘れる人だった。


 すぐに失くすかもしれない物に大枚をはたくのは、賢明ではないと迷ったけど、どうしても欲しくて、自分の誕生日プレゼントに買った。もう十年以上前のことだ。

 今までにも、何度か置き忘れて失くしかけたものの、そのたびに手元に戻ってきた。


 私は、人でも物でも、簡単に好きになれない。こだわりと言えば聞こえがいいけれど、偏屈なのだろう。その代わり、好きになったら、ひどく執着してしまう。欲しいものは、どうしても手に入れたくなるし、それ以外の物が好きになれない。


 美由紀の家の最寄駅を降りると、ビニール傘を広げた。骨の歪みがひどくなっている。早く、自分の傘が戻ってこないかなぁと思いながら、空から吐き捨てられたような水滴を、ビニール越しに見つめた。



「ごめんね〜、散らかってて」と通された部屋は、本当にものすごく散らかっていた。いたるところに、子ども服やおもちゃが散乱していて、足の踏み場もない。


 美由紀の格好も部屋に負けないくらい、とっちらかっていた。低めのポニーテールにひっつめた髪はくしゃくしゃで、部屋着は毛玉だらけだ。今日はまだ着替えてもいないように見える。


 美由紀の腕の中で赤ん坊がスヤスヤと眠っている。美由紀が「私の天使♡」「世界一かわいい♡♡♡」というコメント付きで送ってくれた写真で見た赤ちゃんだ。木華こはなちゃんという。


 真っ黒な頭髪がフサフサ生えていて、眉毛も濃い。女の子と聞いているけど、おっさんみたいな顔をしている。


 指でほっぺをぷにぷにしてみたら、迷惑そうに眉根を寄せて「んなぁ」と小さな声を出した。

 かわいい。

 ブサイクだけど。

 いや、ブサイクだから余計にかわいい。そんな感じの愛らしさだ。美由紀には言えないけど。


「ちょっと! 起こしたら死刑だからね」

 美由紀がささやき声で脅してくる。

「寝てるんだったら、ベッドに置けば?」

「置くと泣くのよ」

「あ〜、背中スイッチね」

 

 この歳になると、まわりの友達や親戚の赤ちゃんに会う機会も増える。

 ぐっすり寝ている赤ちゃんをベビーベッドに置くと、とたんに「ぎゃー!」と泣いて起きるという『背中スイッチ』のことも複数のママから聞いた。


「ねえ、美由紀。今日、顔洗った?」

「え!? あ、わかんない。洗ってないかも」

「目ヤニついてるよ」

「マジで? うわぁ。ヤバいね、私」

「まあいいから洗ってきなよ。抱っこしとくから」

「泣くよ?」

「そーっと交代すればバレないって」

「じゃあ、お願い。ソファに座ってくれる?」


 美由紀がゆっくりゆっくり木華ちゃんを渡し、私は息を殺して受け取った。

「うあー」と木華ちゃんがしかめっ面で声を漏らし、私も美由紀も二秒くらい硬直したが、またすーすーと寝息を立て始めた。

 ほーっと二人して安堵の息を吐く。


千遥ちはる、ほんとありがとう。実はずっとトイレ我慢してたの」

「え?!」

 トイレに脱兎のごとく駆けていく美由紀を見ながら、壮絶だな、とちょっと引いた。


 腕の中の木華ちゃんに顔を近づけて、新生児特有のミルクのようなにおいをかぐ。かわいいとは思う。でも、まわりの妊娠・出産・子育てにまつわる生々しい苦労話を聞いているうちに、すっかり耳年増になった私は、自分が本当にコレやりたいか、と聞かれると微妙である。



 美由紀は、三十歳の誕生日に「今年中に結婚相手を見つけて、来年結婚して、来年か再来年に子どもを生む」と宣言した。妹に子どもができて、自分も「産気づいた」のだと言う。「うかうかしてると、子どもが生めない年齢になっちゃうんだよ!」とタイムリミットについても熱弁していた。


 私は当時の彼氏といつか結婚するんだろうなと思っていたから、へー、とか、ふーん、とか、適当に相づちを打って聞き流した。


 美由紀は総じて大雑把でいろいろとだらしないところがあり、部屋が汚いのも今に限ったことじゃないが、いったん目標ができると一直線に達成してしまうタイプである。


 複数の婚活サイトに登録し、結婚相談所へ足しげく通い、週に三人とノルマを決めて、夫候補の男性に会いまくっていた時期が一年ほど。


 この人だ! という男性に出会ったらすぐに自分からプロポーズし、二度玉砕したが諦めずに婚活を続け、本当に宣言どおりに今の旦那さんとめでたく結婚した。


 と思ったら、今度は妊活である。「三十五歳を過ぎると、妊娠できる確率が一気に下がるんだよ」と恐ろしいデータを私に突き付けつつ、結婚初夜よりも前から妊活をスタートしていた。


 この調子ならすぐに子どもができるだろう、と私は軽く考えていたが、美由紀がようやく赤ちゃんを授かったのは、結婚して三年が経ってからだった。美由紀が泣くので、私ももらい泣きして、二人で泣きながらお祝いしたのを昨日のことのように覚えている。無事に生まれてきてくれて、本当によかった。


 美由紀がトイレから戻ってきた。まだ目ヤニが付いている。顔洗えよ、と思ったあとで、目の下にクマのある疲れ切った顔をみて、そんなことよりもとりあえず寝てほしい、と思い直した。


 こんなにがんばってきた美由紀に、神様は楽させてくれないよなぁ、と哲学的な思考に数秒ふける。


「掃除してってあげようか? ついでに、買い出しとか、ご飯の準備も手伝えるけど」

「いいの?! 千遥さま、神! 最高。大好き。ありがとう」

 美由紀の顔が、エサをもらった子犬のようにパーっと輝いた。


 こういう人だから愛されるんだろうなぁと思う。

 裏表がないから、余計な詮索や心配をせずにすむのだ。こういうところが、「一緒にいて疲れる」とか「重い」とか男に思わせない秘訣なのかもしれない。


 秘訣を知ったところで、美由紀のようにはなれないのだけれど。

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