第18話 貴方と遠く



 人を励ますのが苦手だった。女の子に泣かれるのは、もっと苦手だった。


 それが自分のことなら、俺はどうとでもできる自信がある。仮に俺が部活で虐められたら、虐めてきた奴を辞めさせて、それで終わり。仮にもし自分の力ではどうしようもないことなら、距離を取ってそれで終わり。


 想うことも煩うこともない。できることを手早くやって、できないことは諦める。そこに一切の迷いはないし、後悔もない。俺はそうやっていろんなことに挑戦し、いろんなことを辞めてきた。


 だから1つのことを頑張って、他人に悪意を持たれることが怖いと言って泣くいのりちゃんの気持ちが、俺には全く分からない。邪魔なら退かせばいいじゃないか。退かせないなら別の道を探せばいい。簡単なことだ。泣くようなことなんて、1つもない。……そう思うけれど、それだけではないということも何となく分かる。


 あの後。いのりちゃんの涙が止まるまで慰めて、俺たちはそのままショッピングモールを後にした。いのりちゃんはそれからもずっと浮かない顔で、『カラオケで気晴らしでもしないか?』という俺の誘いも断られ、俺たちは無言で電車に乗っていつもの駅に帰って来た。


「……暑いな」


 まだ日は高い。時刻は2時前。鷹宮さんとの約束にはまだ時間はあるし、もう少しいのりちゃんの側で元気づけてあげたい。そう思うのだけれど、いのりちゃんは力のない声で言った。


「今日はありがとうございました。いろいろその……付き合わせてしまって、情けないところも見せちゃって、すみませんでした」


「そんなの別にいいよ。それより、どこか行きたいとことか、したいこととかない?」


「……その、先輩が気を遣ってくれるのは嬉しいです。けど、私は大丈夫です。いのりちゃんは、こう見えて打たれ強いので」


 小さく笑ういのりちゃん。どう見ても、無理をしているようにしか見えない。……或いはただ、俺にこれ以上、情けない姿を見られたくないだけなのかもしれない。


 ここで余計に構うのは、きっといのりちゃんにとっても迷惑だろう。……こういう時、どんな言葉をかけて何をしてあげたらいいのか、俺にはやっぱり分からない。


 だから。


「よしっ、決めた」


「ん? 急にどうしたんですか? 先輩」


「いのりちゃんさ、ここで30分……いや、15分くらい待っててくれない? ちょっと付き合って欲しい場所があるんだよ」


「ちょっ、いきなりそんなこと言われても、私──」


「いのりちゃん。いのりちゃんは今朝、俺にいきなりラーメン屋に付き合ってって言った。俺はちゃんとそれに付き合った。だから今度は、いのりちゃんの番。そうだろ?」


「でも──」


「いいから。待っててな。約束だからな!」


 そう言って、走ってその場を後にする。いのりちゃんは困惑した顔で呆然としていたが、仕方ない。ありがた迷惑だとしても、あんな顔で笑う子を放ってはおけない。


 きっと俺がこのままあの先輩を辞めさせても、いのりちゃんはバスケ部には戻らないだろう。辞めたくないって泣いてたくせに、周りが怖くて戻れない。そしていのりちゃんは、またさっきみたいな無理した顔で笑うんだ。


「そういうのはもういいよ」


 白山さんの時みたいな失敗は繰り返さない。俺がしてあげられることなんて、たかが知れてる。でもだからこそ、俺のできる精一杯をしてあげたい。


 ……これは恋なのだろうか? たぶん違う。これはもっと単純で、分かりやすい感情。


「うちの妹は、あんまりお兄ちゃんらしいことさせてくれないからな」


 家に着く。息を整えて水を飲み、部屋から必要なものを取る。……どうでもいいけど、うちの妹はいつまで寝てるつもりなのだろう? こいつは放っておいたら、100万年は眠っていそうだ。


「さて、行くか」


 準備を済ませた俺は、急いでいのりちゃんの元へと向かった。



 ◇



 綾川あやかわ いのりは困惑していた。



「あーあ、大失敗だったなぁ」


 人通りの多い駅前で、赤くなった目を隠すように木陰に隠れたいのりは、疲れたように小さく呟く。


 今日のことは、ずっと考えていたことだった。最近、春人は鷹宮 雫や白山 心音にばかり気にかけて、自分の相手をしてくれない。だから今日は少しでも相手をしてもらおうと、朝から準備を進めていた。


 少しでも話がしたして、家の近くで待ち伏せた。春人がラーメンが好きだと真奈から聞いたから、ラーメン屋に誘おうと決めた。少しでも長く一緒に居たかったから、わざわざ歩いて離れたラーメン屋に行こうと言った。


 楽しい1日になる筈だった。実際、途中までは嫌なことを全部、忘れてしまうくらい楽しい時間だった。


 なのに、運悪く嫌な先輩と鉢合わせして。嫌なところを見られて。泣いてるところまで見られて。恥ずかしくて情けなくて、気を遣わせてしまった。申し訳なかった。……早く別れて、家に帰って……泣いてしまいたかった。


 それなのに春人は、珍しく慌てた様子でここで待っててなんて言って、そのまま立ち去ってしまった。そんな春人を無視して帰るなんて真似はできないし、でも……この赤くなった目は絶対に可愛くないから、あんまり見られたくはなかった。


「お化粧は直したけど、やっぱりまだ目が赤いな」


 手鏡で確認した顔は、あからさまに覇気がなく春人が心配するのも分かる。いつもの自分はもっと可愛いのにと、少しだけいのりは笑った。


「先輩、私のことが好きだから、あんなに気にかけてくれるのかな……」


 そんなことはないと、分かってはいる。あんな情けない姿を見られたばかりだし、きっと面倒くさい女だと思われたに違いない。……そうじゃなくても、ハルトの周りには魅力的な女性が沢山いる。


「私、白山先輩や鷹宮さんみたいに胸も大きくないしな」


 いのりはあまり、自分に自信がなかった。普段のキャラクターも、そんな自分を隠す為に作っているものだ。……でも、バスケットボールだけは、ずっと頑張って続けてきた。こんなところで、こんなつまらない理由で終わらせたくはない。


 そう思うと、また涙が滲んでしまう。


「……でも、怖いもん」


 あそこまであからさまな悪意を向けられたのは、産まれて初めてのことだった。誰もが自分の味方ではないという当たり前のことを、初めて実感した。……きっとこれから先、どこかに出かける度に、あの人たちの影を探してしまう。どこかで見られていないだろうかと、不安に思ってしまう。


 それくらい、いのりはあの少女たちが怖かった。


「先輩、遅いな……」


 なんて呟いた直後、声が響いた。


「待たせてごめん、いのりちゃん」


 ようやく戻ってきた春人。彼は見慣れないバイクに腰掛けたまま、小さく笑って言った。


「海行こうぜ? いのりちゃん」


 あまりに唐突な言葉に、いのりはポカンと口を開けたまま、しばらく何も言うことができなかった。


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