第3話 後輩と嘘



 俺がちょうど朝食を食べ終わった頃、少女がリビングに降りて来た。思えば呑気に朝食なんて食べている状況ではないのだが、少女の料理があまりに丁寧で美味しかったので適当に処理する訳にはいかなかった。


「ハルくん、先に出てていよ? 私はこのまま学校行くけど、ハルくんは一度、家に帰るんでしょ?」


 そして、何故か先ほどより髪を乱れさせた少女にそう言われ、俺はそのまま家を出た。


鷹宮たかみやって言うのか、あの子」


 表札に書かれた名前で、ようやく彼女の苗字を知ることができた。しかし相変わらず、その名前に心当たりはない。


「でも案外、近所なんだな」


 少女……鷹宮さんの家は俺の家から徒歩15分くらいの距離だ。この辺りは何もないからあまり来ないが、それでも昔よく来た公園が近くにある。


「何してるんですか? せ〜んばい」


「うおっ!」


 背後からの声に振り返る。そこに居たのは、見慣れた制服を着た可愛い後輩のいのりちゃんだった。


「なんですか、そのリアクション。浮気現場を見られた男みたいになってますよ? 先輩」


「……いのりちゃんが急に声をかけてくるからだよ」


「いやいや分かってますよ? いのりちゃんの魅力に悩殺されたんですよね? ほんと先輩ってば変態なんだから」


 金髪のポニーテールを揺らして、いのりちゃんは笑う。


「悪いけど、今はいのりちゃんの相手をしてるほど暇じゃないから」


 そう言って、鷹宮さんの家から離れるように自宅に向かって歩き出す。


「やだなぁー、怒らないでくださいよ。怖いなー」


 ニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべながら、後をついてくるいのりちゃん。


「なんでついてくるんだよ。いのりちゃん、バスケ部の朝練あるんじゃないの?」


「ありますけど、それよりちょっと気になることがあるんですよ」


「なんだよ、気になることって」


「あははは、そんなの決まってるじゃないですか。先輩、私と付き合ってるはずなのに、どうして鷹宮さんの家から出てきたんですか?」


「────」


 足を止める。一瞬、心臓が止まる。驚きよりも恐怖に手汗が滲む。


「あれ? なんでそんな驚いた顔してるんですか? もしかしてバレてないと思ってました? でも、残念! ……ちゃんと見てましたから、先輩が鷹宮さんの家から出てきたの」


 いのりちゃんが、ゆっくりとこちらに近づいてくる。……やばい、どうなってる? まさか俺、この1週間で後輩にまで手を出していたのか? 何も覚えてない以上、否定する材料がない。


「ねぇ、黙ってないで答えてください。どうして先輩が、私と付き合ってる先輩が、鷹宮さんの家から出てきたんですか?」


「いや、それは……」


「それは? それはなんですか? まさか私にあんなことまでしておいて、遊びだったとかそんな酷いこと言うつもりじゃないですよね?」


「そんなことはないけど……」


「じゃあ、なんなんですか? 答えてください」


 キスするくらい近くまで、いのりちゃんの顔が近づく。柑橘系のいい香りを漂わせながら、初めて見る色のない瞳で、いのりちゃんがこちらを見る。


 そして彼女は、その柔らかそうな唇を耳元まで近づけて囁くように言った。



「──なんて、冗談ですよ」



 思わずいのりちゃんの顔を覗き込む。いのりちゃんはそんな俺の様子を見て、おかしそうに声を上げて笑う。


「あははははっ! 先輩、もしかして本気にしました? 冗談に決まってるじゃないですか。私が先輩と付き合う訳ないのに、先輩ったら顔を真っ青にして……おっかしい!」


「……ふざけるなよ、いのりちゃん!」


 ケラケラと笑う後輩の頭を締め上げる。このバカはこの非常時に、なんて冗談を言いやがる。完璧に本気にしちまったじゃねーか!


「ちょっ、痛い痛い。可愛い後輩の冗談じゃないですか。そんな怒らないでくださいよ」


「いやお前は一度、痛い目を見ないとダメだ!」


「体罰なんてもう古いです! 間違ってます! 横暴です!」


「これは体罰じゃない! 単なる暴力だ!」


「だったら尚更、ダメじゃないですか!」


 などと意味の分からないやり取りをして、いのりちゃんから手を離す。……よかった、この後輩にまで手を出していたら、もうお天道様の下を歩けないとこだった。


「ふぅ、痛かった。せっかくセットしてきた髪が乱れちゃったじゃないですか、もうっ」


「どうせ朝練で乱れるんだし、一緒だろ?」


「違います! 前髪は女の子の命なんだから丁重に扱って下さい!」


 手早く手鏡を取り出して、いそいそと髪を整えるいのりちゃん。


「……で、先輩は朝早くからこんなとこで何してるんですか? まさか本当に、鷹宮さんの家から朝帰りなんてことはないですよね?」


 手鏡を鞄にしまって、改めてそう尋ねられる。


「ははっ、当たり前だろ」


 適当な笑顔で誤魔化す。どうやら鷹宮さんの家から出てきたところは、見られていなかったようだ。……よかった。


「じゃあ先輩、こんな朝早くにこんな場所で何してるですか? 先輩が朝の散歩なんて健康的なことやってる訳ないですし……。あ、分かった。またあの変なバイト先の人のところに泊まってたんですね?」


「ま、そんなところかな。最近ちょっと切無きりなしさんが忙しいみたいだから、いろいろ手伝わされてるんだよ」


「へー、そうなんですか。でも先輩、大丈夫なんですか?」


「大丈夫って何が?」


「いや、先輩もう3日も学校サボってるじゃないですか。いくら先輩、勉強できるからってあんまりサボってたら私と同級生になっちゃいますよ?」


「……え?」


 思わず絶句してしまう。


「俺、3日も学校サボってるっけ?」


「サボってますよ。なんですか? 寝ぼけてるんですか? なんか変ですよ、先輩。鷹宮さんが先輩のクラスに転校してきてから、あんまり構ってくれなくなったし。……いのりちゃんは、ちょっと拗ねてます」


「ははっ、悪かったよ」


 力が抜けるように笑って、いのりちゃんの頭を撫でる。撫でながら少し頭を悩ませる。


 どう見てもいのりちゃんが嘘をついているようには見えない。そもそもそんな理由が、いのりちゃんにはないだろう。だったら俺は本当に学校を3日もサボり、その間に転校生らしい鷹宮さんと身体を重ねるような関係になって、元カノと復縁して手を出した。


 ……何をやってるんだ、俺は。


「ちょっ、やめて下さいって。せっかく整えた髪が、また乱れるじゃないですか。……もうっ、子ども扱いしないでください!」


 顔を真っ赤にして、いのりちゃんが俺から距離を取る。いのりちゃんは本当に可愛い後輩だ。


「悪い悪い。……でさ、いのりちゃん」


「なんです?」


「俺ってその……鷹宮さんと仲良かったの?」


「……なんでそれを私に訊くんですか。なんの嫌がらせですか」


「いや、嫌がらせじゃなくて。……えーっと、いのりちゃんから見て俺と鷹宮さんって、どんな風に見えてたのかなって」


 俺のその問いを聞いて、いのりちゃんは露骨に不機嫌そうに前髪を弄りながら、小さな声で言葉を返す。


「友達には見えませんでした。それ以外は知りません」


「いや、そうじゃなくてもっと具体的に──」


「知りませんって! 私はこれから朝練なので!」


 まくし立てるように言って、そのまま走り去っていくいのりちゃん。まだまだ訊きたいことは山ほどあったが、チーターより足が速いいのりちゃんに追いつくのは不可能なので、大人しく見送るしかない。


「……まあとりあえず、いのりちゃんにまで手を出してなくてよかった」


 今はそれで納得しておく。あの可愛い後輩はできればずっと、生意気なままでいて欲しい。軽く伸びをして、そのまま自宅に向かって走り出す。







「先輩は私の先輩なのに。どうして、あの人ばっかり……」



 事態はゆっくりと前に進む。俺はまだ何も知らない。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る