第10話 天使と雨雲
ずっと、退屈していた。
「今日は満月か」
薄暗い街を眺めながら、ゆっくりと家に向かって歩く。時刻は既に夜の11過ぎ。辺りはすっかり夜の闇へと飲まれていて、降り注ぐ満月の淡い光と頼りない街灯が足元を照らす。
「なんとかなったな」
とりあえず、今日1日を乗り越えることができた。鷹宮さんにも白山さんにも、記憶がないことがバレなかったし、二股……最低でも二股しているという事実を隠すことができた。
「でもこんなの、すぐにバレるよな……」
記憶のことは誤魔化すことができたとしても、二股のことはそう遠くないうちにバレるだろう。白山さんがクラスに遊びに来たり、鷹宮さんが学校でも明るく振る舞えるようになっただけで、瓦解するような状況だ。
「早く記憶を取り戻して、こうなった原因を知らないと。……鷹宮さんが泣いてる顔は、もう見たくないからな……」
なんとなく、あの子は放っておけない感じがする。守ってあげないと生きていけない弱い女の子……ではなく、放っておくと自分の胸を刺してしまうような、そんな危うさが彼女にはある。
「記憶喪失。二股。学校サボった3日間。……随分と退屈しない1週間だったんだろうな」
ずっと退屈していた。この世界はまるで誰かがラスボスを倒した後のような世界だと、彼女は言った。やるべきことは誰かが終わらせてくれていて、後に残ったのはつまらないサブクエストだけ。
勉強。部活。恋愛。受験。就職。結婚。そんなのは全部サブクエストで、こなさなくたって世界は滅びない。別にそんなに頑張らなくても、幸せにはなれる。
この世界には、本当にやるべきことが欠けている。
誰かが勝手にラスボスを倒してしまったから。平和なだけの退屈な世界が残った。
だから、探していた。
俺のやるべきことを。
「……なんてな」
退屈しのぎに二股するほど、俺も腐ってはいない。そもそも今日のあれやこれやで、寝落ちしてしまうくらい疲れているんだ。これ以上の面倒ごとは御免だ。さっさと記憶を取り戻して、また……。
「って、なんだ? あれ……」
角を曲がろうとして、ふと何かが見えた。夜の闇を泳ぐ、白い何か。月明かりを飲み込むような、真っ白な──。
「そういえば、嫌なことを忘れさせてくれる天使がいるんだったな」
もちろんそれは単なる噂。……普段ならそう笑い捨てるような話だが、今の状況からして無視できるようなことじゃない。
「ちょっと追いかけてみるか」
本気で天使なんてものを信じた訳じゃない。でも、それでも何かあるんじゃないかという期待を捨てられず、ふと見えた白い影を追う。
「こっちの方に行ったと思うんだけどなぁ」
夜の人通りのない住宅街。すれ違う人間は誰も居らず、いくら探しても天使の姿は見えない。
「……見間違いか」
月明かりが何かに反射して、翼のように見えただけなのだろう。天使の噂を聞いたばかりだから、感覚が過敏になってしまっていたようだ。
「あ、くそっ。雨か」
気づけば満月は雲に隠れていて、ザーザーと冷たい雨が空から落ちる。……余計な寄り道をしなければ、今頃家に着いていただろうに、ほんと何をやってるんだ、俺は。
「……え?」
そこでまた、白い影。白い翼。……いや、違う。今度は見間違えなんかじゃない。カーブミラーに反射して見えるそれは、どう見ても……。
「マジかよ」
雨なんて全く気にすることなく、白い翼をはためかせる少女。コスプレ……なのだろうか? 最近のコスプレは完成度が高いらしいし。……でも、こんな深夜の雨の中、誰が好き好んで天使のコスプレなんてやるんだ?
ふと、影がこちらを見た。
「────」
天使と目が合う。
ドクンと、心臓が跳ねる。
俺は、走った。
「はぁ、はぁ……!」
全力で地面を蹴る。雨なんて気にせず、ただがむしゃらに走る。ただただ走って、あの白い翼から逃げる。あの……血で染まったような赤い瞳から、全力で逃げ出す。
「なんだよ、あれ。なんだよ、あれ……!」
ひと目見た瞬間、ダメだと思った。あれがただのコスプレイヤーでも。本物の天使でも、単なる幻覚でも。なんであれ、あれはダメだ。
本能が拒絶する。
あんなものに関わりたくない。
「はぁ……はぁ……はぁ。ここまでくれば、大丈夫か……」
家とは逆方向に走って来てしまった。身体は雨でびしょ濡れ。いくら6月で暑くなってきたとはいえ、このままだと風邪をひいてしまうかもしれない。
「……とりあえず、ここに入れてもらうか」
知らないビルの駐車場で雨宿り。ここから家まで走って15分。息が整ったら、さっさと帰ろう。
「にしても、なんだったんだ、あれは」
明らかに普通じゃなかった。空から月が落ちてきたのだとしても、あんな恐怖は感じない。
「きっと、心労が祟って見えた幻覚だ」
ああいうものは考えたら負けだ。考えても分からないことは、さっさと投げ捨てるにかぎる。
「……でも、あれが記憶喪失の原因かもしれないんだよな」
嫌な記憶を忘れさせてくれる天使。あの姿を見た今だと、笑い飛ばすことはできない。どうしてあれが俺の記憶を奪ったのかなんて分からないし、本当は全く関係ないのかもしれない。
しかしそれでも現状、唯一の手がかり。
「もっかい探すか?」
探して、どうするのか。言葉が通じるのか。……殺されたり、しないのか。何も分からないが、分からないままだと、また鷹宮さんを泣かせてしまう。白山さんを傷つけてしまう。
「行くか」
雨の中、走り出す。逃げた道をまた戻る。……するとどうしてか、既視感を覚える。そういえば俺、前もこうして雨の中を走っていたような……。
夜の闇が溶け出したような、暗い雨。光のない冷たい街。俺はそこで、誰かを必死に探していた。
「見つけた」
白い翼に白い髪。血を固めて作ったような、赤い瞳。人の形をしているのに人間には見えない、化け物。……魂が震える。怖い。怖い。怖い。
ただ、怖い。
それでも、俺は言った。
「お前、俺の記憶を知らないか?」
白い天使は、気だるげな仕草でこちらを見て、言った。
「──貴様も懲りない奴だな」
「…………え?」
視界が真っ赤に染まる。意識が闇に落ちる。身体に力が入らない。立っていられない。……ダメだ、このままだと、俺は……。
「……あ」
ふと、思い出した。そうだ。俺はこの1週間で天使を探していたんだ。最初はただの退屈しのぎ。けれどそこに鷹宮さんとソラちゃんが関わってきて、助けてあげたいと思った。彼女の記憶を消してあげたいと願った。あの子がまた、笑っていられるように、俺はずっと……。
身体が重い。意識が落ちる。……結局、最期はこんなものか。鷹宮さんに刺される訳でも、白山さんに刺される訳でもない。見ず知らずの天使に、何をされたのかも分からないまま……殺される。
「……ははっ」
因果応報といえばそれまで。どんな理由であれ、二股なんてしたクソ野郎は、誰に殺されても文句なんて言えない。
意識が途切れるその間際、最後に天使は言った。
「全部、忘れられたらいいのに」
それはまるで、涙のような言葉だった。
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