第9話 夢と嘘
「ふふっ、可愛い」
夕食の後、2人でケーキを食べて、洗い物を終わらせた。そしてしばらくダラダラと過ごしていると、よほど疲れていたのか、春人はそのままソファで眠ってしまった。
「は〜るくん。ハルくん、ハルくん」
隣に座って、頬をツンツンと突く。けれど春人は全く目を覚ます気配がなく、気持ちよさそうに寝息を立てている。
「……可愛い」
腕を抱きしめて頭を肩に乗せる。そうするだけで、心の中が幸せで満たされる。ずっとずっと夜は1人で寂しかったから、愛しい人が側に居てくれる現実が雫の胸を満たす。
「ハルくん、髪サラサラ。肌も綺麗だし、意外と筋肉もある。……カッコいいなぁ。誰にも渡したくないな……」
こうして春人の身体に触れているだけで、胸が高鳴る。心臓がドキドキする。1週間前のあの日。全てが変わってしまったあの日から、それだけは変わらない。
「このままずっと、目を覚さなかったらいいのに」
そうすれば、ずっと春人を独り占めできる。誰にも触れさせず、誰の目にも届かない。何の意味もないただの箱でしかなかったこの家が、春人を守る小さな城になる。春人と本当の家族になれる。
「……あ」
そこで雫は、ソファの上に転がった春人のスマホを見つける。
「…………」
一瞬、中身を確認しようかと思う。けれど、すんでのところで思い留まる。そこまでする必要はない。そんなことしなくても、春人は自分の隣に居てくれる。
「ケーキ、美味しかった。私のカレー、美味しいって言ってくれた。明日も一緒にご飯を食べようって、約束してくれた」
だったら何も問題はない。問題があるとすれば、それは……。
「白山 心音。私のものだったハルくんを奪った女」
この1週間、春人は時より遠い目でどこかを眺めていた。何かに思いを馳せるように、遠い過去に手を伸ばすように、寂しそうな顔でどこかを見つめていた。
春人と心音に何があったのか、雫は知らない。けれど、春人の心の中にまだあの女がいる。
「嫌な過去なんて全部、忘れちゃえばいいのに。そんなの何の意味もないんだから」
春人の首筋にキスをする。一度だけのつもりだったけど、我慢できなくて、白い首に舌を這わせる。そしてそのまま、下半身に手を……。
「……っと、寝てた」
そこで春人が目を覚ます。雫は慌てて春人から距離を取る。
「鷹宮さん、なんか悪戯してた?」
全てを見透かしたような目で、春人が雫を見つめる。
「うん。ハルくんの寝顔が可愛いから、ちょっとだけ、ね」
「ま、別にいいけどね」
立ち上がって軽く伸びをする春人。この1週間で、彼がどういう風に成長したのか知っている雫は、少しだけ不安になる。
またあの時のように彼を怒らせてしまったら、今度こそ一緒にはいられなくなる。
「じゃあ俺、そろそろ帰るよ」
「……今日は泊まっていけば? どうせこの家には私たち以外、誰も帰ってこないんだし」
「いや、悪いけど流石に今日は帰らないと。父さんと母さん……は、心配しないだろうけど、妹の奴が心配するからな」
ハンガーにかけてあるブレザーに手を伸ばす春人の背中を、雫は強引に抱きしめる。
「私、もっとハルくんの側にいたい」
「いや、俺は──」
「……私、昨日の続きがしたいな。昨日は初めてだったからあんまりよく分からなかったけど、でも今日は大丈夫。もっとハルくんのこと、気持ち良くしてあげたい。……いいでしょ?」
身体が熱い。こうやって触れているだけで、胸が痛い。愛しくて愛しくて、我慢できなくなる。
「…………ごめん。鷹宮さんの気持ちは嬉しいけど、やっぱり今日は帰るよ」
「どうして? 私じゃダメなの?」
「いや、そうじゃなくて……」
春人は優しく雫の手を離して、正面から雫を見つめる。そして、何かを考えるような憂いを帯びた瞳で一瞬だけ斜め上を見つめてから、優しい声で言う。
「鷹宮さんのことは大切だから。だから……大切にしたい。軽いものにしたくないんだ」
正面から優しく抱きしめられる。ドクンドクンドクンと、心臓が高鳴る。
「ハルくんは、ずるいよ。……そういう言い方はずるい。でも分かった。そんな風に言ってくれるなら、今日は我慢する」
「ありがとう」
「……でも、このまま帰るのは嫌。寂しい」
「って、言われてもな。家に着いたら、またメッセージ送るし──」
「そうじゃなくて、ハルくん。キスして欲しいの。ハルくんの方から、私を求めて欲しい。いいでしょ?」
ゆっくりと目を瞑る雫を、困ったような顔で見つめる春人。ドキドキと高鳴る2人の心臓。我慢できなくて、強引に自分の大きな胸を押しつける雫。そんな雫に春人はまた小さく息を吐いて、そのまま優しくキスをする。
「……どうして、おでこなの?」
「いや、隙だらけだったから」
「なにそれ。私、唇にして欲しい」
「今日はこれで我慢してくれ」
優しく頭を撫でられる。身体から力が抜ける。そんなに優しい顔で頭を撫でられたら、何でも許してしまいそうになる。
「……分かった。ハルくんがそう言うなら我慢する」
幸せだなって、雫は思う。もう他に何もいらないくらい、幸せだ。あの高校に転校して。この街に帰ってきて。何もかもを台無しにしてしまった自分は、もう幸せになんてなれないと思っていたのに、こんな風に愛してもらえた。
「ハルくん。好き。愛してる。心の底から愛してるよ」
手を離そうとした春人に強引にキスをする。春人はそんな雫を見て、困ったように笑う。そんな笑顔だけは昔と変わらないなと、雫は思う。
「じゃ、俺は帰るから」
そう言って、春人は玄関の方に歩き出す。
「うん、また明日ね」
と、雫は春人を見送る。見送ってそのまま、2階のベランダから見えなくなるまで、春人の背中を見つめ続ける。
「……オムライス、ほんとはハルくんの好物だったんだけどな」
と、雫は小さく呟いた。
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