第39話 唇と君



「お茶、淹れてくるからちょっと待っててね」


 と言って部屋から出て行った鷹宮さんを見送って、小さなソファに座る。俺が案内されたのはリビングではなく、何故か鷹宮さんの部屋。一度、泊まった場所ではあるが、まだやっぱり慣れない。


「あー、そうだ。スマホの充電器、また貸してもらわないと」


 充電器が切れたスマホを見て思い出す。あまり借りてばかりだと迷惑だし、今日の夜にでもネットで注文しておこう。


「お待たせ、ハルくん」


 そんなことを考えていると、アイスコーヒーを持った鷹宮さんが戻ってくる。


「わざわざ、ありがとう」


「……えへへ」


 鷹宮さんは可愛らしく笑って、俺の隣に座る。コーヒーの香りに混じって、石鹸のいい香りが漂う。これはきっと、鷹宮さんが付けている香水の香りなのだろう。


「ハルくんってさ、なんかいい香りするよね。何か香水でも付けてるの?」


「俺? 俺はそんなの付けてないよ。俺より鷹宮さんが、いつもいい香りするなーって思うけど」


「私も一応、女の子だからね。最近はちょっと気を遣ってるの」


「そうなんだ。なんか……いいと思うよ、上手く言えないけど」


「ありがと。ハルくんにそう言ってもらえると、嬉しい」


 鷹宮さんが少しだけ、こちらに体重を預ける。肩と肩が触れ合って、鷹宮さんの体温が伝わってくる。


「……鷹宮さん。そんな風にされると、コーヒー飲みにくい」


「飲んだらハルくん帰っちゃうから、ちょっとだけ邪魔してる」


「なんだよ、それ。心配しなくても、そんなすぐには帰らないよ」


「でも、泊まっていってはくれないんでしょ?」


「そりゃまあ、な。明日は流石に学校行かないとダメだし、あんまり長居するつもりはないけど……」


「だから、ちょっとでも側にいたいなって邪魔してるの」


 鷹宮さんはふざけたように、俺の身体に触れてくる。


「ちょっ、やめろって。くすぐったいって」


「嫌ですー。ハルくんが泊まるって言うまで、辞めませんー」


「首撫でるのはやめてって。コーヒー溢れる」


「ふふっ、ハルくんは首が弱いんだね」


 最初はふざけていたような鷹宮さんの手つきが、どんどん艶かしくなっていく。いつの間にか大きな胸が俺の身体に押し付けられていて、ドキドキとした鼓動が伝わってくる。


「……ちょっと鷹宮さん、ふざけ過ぎ」


 言って、鷹宮さんから距離を取る。誤魔化すように飲んだアイスコーヒーは、思っていたより苦い。


「……ハルくんってさ、私に触れられるの嫌?」


「嫌ではないよ。ただ、あんまりやり過ぎるのも違うだろ? 俺たち別に……付き合ってるわけじゃないんだし」


「…………そうだよね」


 鷹宮さんは長い黒髪を指に絡めて、コーヒーにガムシロップを入れる。


「ごめんね? ハルくん、私ちょっと浮かれてたみたい。昔の友達と運命みたいに再会して。また仲良くなれて。……1人じゃないって思えて。私、あんまり人と関わってこなかったから、距離感が分かってないの」


「別に、責めてるわけじゃないよ」


 コーヒーをまた一口、どうしてかさっきより苦味を感じない。


「ハルくんってさ、女の子と付き合ったことある?」


「……どうしたの? 急に」


「気になったから、ハルくんちょっと女の子エスコートするの慣れてる感じだし」


「そんなことは、ないと思うけど……」


「でも、あるんだよね?」


「……あるよ」


 白山さんのことを思い出す。あの子のあの温かい手。照れたような笑顔。そして……最後に見せた、壊れたような泣き顔。俺はあの子のことが好きだった。けどもうそれは、過去のこと。……本当に、そうなのだろうか?


「それってさ、白山って子なんだよね?」


「そうだけど……知ってるの?」


「ちょっと、みんなが話してるのを聞いたから」


 誰が何を話していたのか気になるところだけど、それはきっと今訊くことじゃない。


「ハルくんってやっぱりまだ、その白山って子のことが、好きなの?」


「……前にもいったけど、分かんないよ」


 白山さんが他の男の付き合っているのを見たら、少しショックを受けると思う。逆に彼女がまだ俺を好きだと言ってくれたら、少し嬉しいとは思う。けど、これから彼女と二度と話さないんだとしても、俺は何も思わない。


「分からないってことはさ、私にもチャンスがあるってことだよね?」


「それって──」


「言葉通りの意味だよ」


 鷹宮さんが強引に俺を抱き寄せ、そのままベッドの上に押し倒す。足がテーブルにぶつかって、コーヒーが溢れる。まるでそれが、遠くの世界の出来事のように感じる。


「…………」


 さっきよりも近くで感じる、温かな身体。押し付けられた柔らかな胸。肌にかかる熱い吐息。そして漂う、石鹸の香り。……ドキドキする。


「嫌だったら、振り解いても突き飛ばしてもいいよ? 私は強いから、それくらいで傷ついたりしない。……諦めたりしないから」


「そんなことは、しないよ」


「じゃあ、ハルくんはこれから何をしてくれるの?」


 鷹宮さんの激しい鼓動が伝わってくる。潤んだ瞳が、真っ直ぐに俺を見る。……分かっていた筈だ。気づかないふりをしても。鈍感なふりをしても。俺はずっと前から、分かっていた。


 鷹宮さんは、俺のことが好きなのだろう。それが依存なのか、逃避なのか、それとも愛情なのか、俺には分からない。けど、彼女の気持ちに嘘はない。


 それが分かっていて、俺は彼女の側にいた。看病をした。アニメを観た。デートに誘った。ご飯を食べた。そして、こうして家にまでやって来た。断ろうと思えば断れたのに、俺はそうしなかった。今だって振り払うのは簡単なのに、そうしない。


 ……どうして?


 自分で自分に問いかける。……答えはない。


「鷹宮さんさ、強引に迫れば俺が何でも言うこと聞くと思ってない?」


「…………」


 鷹宮さんは何も答えない。俺は色のない天井を見つめたまま、言葉を続ける。


「確かに俺はさ、流されがちだし、鷹宮さんみたいな強引な子は好きだよ? でも俺は……鷹宮さんが何を考えてるのか、よく分からない。このまま……このまま流れで手を出されて、鷹宮さんは後悔しない?」


「しないよ、絶対に」


「言い切るね。鷹宮さんは、そういう経験あるの?」


「ないよ。ないけど……頑張るから、ハルくんの為に頑張らせて欲しい。もっともっと近くで、ハルくんを感じたい。痛くても辛くてもいいから、私だけを求めて欲しい」


「…………」


 頭が痛い。……いや、悪い気分な訳じゃない。寧ろ、必死に我慢しないと、このまま流されてしまいそうだ。それくらい、鷹宮さんは魅力的だ。なのにどうしてか、頭が痛い。何か……とても大切なことを忘れているような、そんな気にさせられる。


 最近、こんなのばっかりだ。もういい加減、辞めにしたい。辞めにしてくれ。


「今日ね、ハルくんの噂を聴いたんだ。ハルくんはその白山って子の為に、上級生の子を不登校になるまで追い込んだって。他にもハルくんは、いろんなことしてきたんだよね?」


「……噂には、尾ひれがつくからね」


「それでも、白山って子はハルくんを傷つけた。ハルくんにばっかり無理させて、自分はお姫様にでもなった気分でいた。……私は、ハルくんにそんな想いをさせない。私がハルくんを守る。だから……お願い。私をもっと、必要として」


 鷹宮さんの唇が迫る。艶やかな薄ピンクの唇が、俺の唇に触れる。……その直前に、俺は小さく囁く。


「……いいよ」


 鷹宮さんの細い背中を抱きしめる。驚いたように、ビクッと身体を震わせる鷹宮さん。けど彼女はすぐに、身体から力を抜いた。……唇が、もう少しで触れる。


「そうだ、鷹宮さん。その前に1個だけ、頼んでもいい?」


「なに? なんでも言って……」


 潤んだ目でこちらを見る鷹宮さんに、俺は小さく笑って告げる。


「スマホの充電器、貸して欲しい」


「……いいよ。いくらでも、貸してあげる」


「ありがとう」


 俺の唇が鷹宮さんの唇に触れる。そうして俺は、鷹宮さんと関係を持った。そしてその日の夜に、あの子の涙でまた俺の記憶が流される。



 俺が忘れた1週間。その最後に、もうすぐ手が届く。


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