第40話 記憶と天使



 温かな感触に、ふと目を覚ます。


「…………」


 すぐ近くで聴こえる寝息。石鹸のいい香り。甘えるように俺に覆いかぶさった、1人の少女。鷹宮さん。


「当たり前だけど、服着てないな……」


 の後、そのまま眠ってしまった俺と鷹宮さん。落ち着かなくて目を覚ましてしまった俺とは違い、鷹宮さんは気持ちよさそうに寝息を立てている。起きる気配はない。


「コーヒー、拭いとくか」


 鷹宮さんを起こさないようベッドから起き上がり、服を着て床にこぼれてしまったコーヒーをハンカチで拭く。窓の外はまだ真っ暗。時刻は深夜の1時前。こんな時間に目を覚ますのは、とても珍しい。


「やったことを考えれば、当然か」


 鷹宮さんを抱いた。昔の知り合いとは言え、再会して数日の女の子に手を出してしまった。……いや、その言い方だと鷹宮さんに対しても失礼だ。


「……ちょっと散歩でもしてくるか」


 どうしても、落ち着かない。まだ心臓がドキドキしてる。このまま二度寝なんてできないし、かといって鷹宮さんと同じベッドにいると、変なことばかり考えてしまう。なので鷹宮さんには悪いが、少し夜風に当たりに行こうと決める。


「いい風」


 外に出ると、心地いい夜風が頬を撫でる。散歩するにはいい夜だ。特に目的もなく、ダラダラと歩き出す。まるで何かに呼ばれるように、足が勝手に動く。


「……何やってんだろうな、俺」


 鷹宮さんのことは嫌いじゃない。寧ろ俺は、あの子のことを気に入ってる。好きだと言っても、差し支えない。だからああして、彼女と関係を持った。……でも、何かとても大切なことを忘れてるいるような、そんな気がする。


「天使。嫌なことを忘れさせてくれる、天使の絵本」


 どうしてか、ソラちゃんが言っていたその話を思い出す。絵本。昔はよく読んだ。今は本もあまり読まない。切無さんが貸してくれた本を、偶に読むくらいだ。……けど、そういえば切無さんが、何か天使を題材にした絵本を描いていたような気がする。


「……あれ? 俺が切無さんと出会ったのって、その絵本がきっかけだったような……」


 なんだか記憶が混乱している。思い出せない3日間。けどそれよりもっと前に、俺は何かとても大切なことを忘れている気がする。鷹宮さんとの過去。彼女が俺をハルくんと呼ぶ理由。俺がソラちゃんを、ソラちゃんと呼んだ理由。


 それらは全て繋がっている筈なのに、上手く思い出すことができない。


「でも、所詮は過去だ」


 過去がどうであれ、俺には今、大切だと思える女の子がいる。……でもそれを言うなら、過去にも誰かいたかもしれない。俺が忘れているだけで、他にも誰か別の人間を愛していた可能性もある。


「退屈、か」


 ずっと、何かやるべきことを探していた。言い訳みたいな作業じゃなくて、俺にしかできない何かを探していた。でもそれは、ただ単に忘れてしまった愛する誰かを、俺はずっと探していただけなのかもしれない。


「……って、なんだ、あれ」


 ふと見えた白い光。まるで夢のように街を歩く、白い翼の少女。俺はまるで光に集まる虫のように、その翼に引き寄せられる。


 するとふと、声が聴こえた。


『どうして泣いてるの?』


 それは現実ではない。過去の記憶。頭の中でだけで響く、過去の思い出。忘れてしまった記憶が、頭の中で再生する。


『嫌なことばっかり集めるのは、もう嫌だ。……辛い。嫌なことなんて全部忘れて、楽しいことがしたい』


『じゃあ俺が、見つけてやるよ。何か楽しいこと』


『いいの?』


『ああ。どうせ、退屈してたしな』


『ありがとう』


『俺は神坂 春人。君の名前は?』


『……名前なんて、私にはない』


『じゃあ……そうだな。ソラは?』


『ソラ?』


『青空みたいに綺麗な目だから、ソラ。いい名前だろ?』


 なんて臭い台詞何だ。ガキの頃の俺は、そんな台詞を苦もなく言えた。そして今も、そんなに変っちゃいない。


 そうだ。俺がソラちゃんを、見つけたんだ。俺が彼女に名前をあげた。彼女にいっぱい、楽しいことを教えてあげた。……教えて、あげたかった。でも……何もかもが、上手くいかなくて。鷹宮さんが、ソラちゃんを拒絶して。ソラちゃんも鷹宮さんを拒絶して。


 結局、俺は……。


「貴様は本当に懲りない奴だな」


 と、天使は言った。


「久しぶりだね、ソラちゃん」


 と、俺は言う。


「……久しぶり? 貴様は今日も、これと遊んでいたんじゃないのか?」


「そうだけど、でも……俺はずっと忘れていたから。ずっと忘れたままだった。今でもまだ、思い出せてない。でも、分かることはある。俺が君を見つけたんじゃなくて、君が俺を呼んだんだってこと」


「…………」


 天使は何も言わない。ただ凍えるような目で、俺を睨む。


「天使はそうやって、人の記憶を奪う。嫌な思い出を忘れさせてくれる。君には人を引きつける力がある」


 俺がソラちゃんを見つけたんじゃない。ソラちゃんが俺を呼んだんだ。だから俺は、迷わず天使を見つけられた。


「どうして、思い出した?」


「分かんないけど、君を見てたらなんとなく」


「……相変わらず、よく分からんな、貴様は。私から記憶を奪うなんて真似は、普通はできない筈なんだがな」


「…………」


 小学生の頃、1人で泣いていたソラちゃんを俺が見つけた。俺はそんなソラちゃんに、楽しいことを教えてあげようと思った。そして俺は、鷹宮さんとも知り合った。家族に問題を抱える鷹宮さんは、嫌なことを忘れたいと言った。だから俺は、2人を引き合わせた。


 そして、2人は……。


「そうだ。私が貴様を呼んだんだ。こいつはいつも、貴様のことを呼んでいる。偶々、見つけた? そんな訳がないだろう。こんな広い街で、偶然などそうそう起こらない。貴様はずっと、こいつに囚われている。こいつがいるから、貴様は何も手に入らない」


「俺は別に、ソラちゃんのことを拒絶したい訳じゃない」


「でもお前は、こいつを選ばなかった。今も前も昔も。お前はこいつを選ばなかった。だからこいつは貴様を呼んで、貴様の記憶を消した。人の為ではなく、自分の為に」


「…………」


 俺はソラちゃんのことが嫌いじゃない。けど俺は、彼女を選ばなかった。……選べなかった。


「お前はこいつではなく、白山という別の女を抱いた。だからこいつは、お前の記憶を消した。しかしお前はまた、鷹宮とかいう別の女を抱いた」


「だからまた、俺の記憶を消すのか?」


「……そうしなければならない。そうしないとこいつは、自分を保てない。私が私を保たない」


 天使が迫る。意識が霞む。このままだと駄目だと思うけど、身体が動いてくれない。……逃げられない。


「最後に頼んでいい?」


「……なんだ?」


「倒れた俺をさ、鷹宮さんの側まで運んでよ」


「どうしてそんなことを、私に頼む?」


「倒れた俺を公園まで運んでくれたのは、君でしょ?」


「…………」


 天使は何も答えない。俺は言葉を続ける。


「だからさ、頼むよ。ここであの子を1人にするような真似は、したくない。それがせめてもの……責任だと思う」


「……分かった。できる限りのことはしよう。……だが、いつかお前が全てを思い出した時、貴様とこいつはどうなるのだろうな?」


「さあ、知らないよ」


 忘れた後の話なんて、俺には想像もできない。


「そうか。なら眠れ」


 意識が落ちる。記憶が消える。……そうか。結局、全て俺とソラちゃんの問題だったんだ。あの子は俺のことを……あの時からずっと俺のことを、愛してくれていた。だから何度も、俺の記憶を消した。



 それでも俺は、彼女を選ばなかった。



 ……どうして?



「知らねーよ、んなこと」


 意識が途切れる。その瞬間見えたのは、涙のような顔をした少女の笑みだった。



 ◇



 そして俺は全てを忘れて、裸の鷹宮さんと同じベッドで目を覚ました。それが、俺の忘れた1週間。白山さんに手を出した最初の3日間。そこから俺はその3日の記憶を忘れ、鷹宮さんと関係を持った。そしてその後、また鷹宮さんとのことを忘れた。



 俺は天使に記憶を奪われた。



 鷹宮さんを好きだって気持ちも、白山さんを好きだって気持ちも、どちらも嘘ではない。……嘘ではないけど、だからって許されることじゃない。


 俺が忘れても、俺がしたことはなくなったりはしないのだから。


「……思い出しても、どうしようもないな」


 長い夢から覚めたあと、隣で眠る白い髪の少女を見て、俺は大きく息を吐いた。


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