第28話 記憶と雨
「──貴様、忘れたい記憶があるようだな」
冷たい目でこちらを見るソラちゃん。前に見た時と、雰囲気が違う。纏う空気が違う。心臓が潰れたのかと錯覚するほど、強い恐怖。脳の奥にある本能が、逃げろと叫ぶ。
「…………」
でも、俺はこの子が普通じゃないと分かって声をかけた。普通じゃないと分かったから、声をかけた。……退屈しのぎ。或いは、もっと根底にある何か。俺はこの子のことを、知りたいと思った。
けれど、白山さんがいる。
ここでソラちゃんの方に踏み出すと、白山さんとの関係が終わってしまう。そんな予感がある。引き返すなら今しかないと、どこかから声が聴こえる。
「忘れたい記憶、ね。別にそんなのないよ、ソラちゃん」
けれど俺は、ドキドキと高鳴る心臓を押さえつけながら、そう言葉を返した。
「ソラちゃん? ……ああ、これの名前か。そうか、これはまだ、そんな遊びを続けているのか」
「……なんかよく分からないけど、大丈夫なの? その背中の翼、コスプレとかじゃないよね?」
「それ以上、私に近寄らない方がいい。嫌な記憶……大切な記憶を、忘れたくないのなら、な」
その言葉に足を止める。心臓の鼓動が更に速くなる。なんだか意識がふわふわとする。世界の上下が入れ替わったような感覚に、思わず近くの電柱に手をつく。
「……そうか。やっぱり噂は本当だったのか。嫌な記憶を忘れさせてくれる天使。それがソラちゃんだったんだ」
「天使? いつの時代も、そういう話が好きだな、貴様は」
「……俺だけじゃないと思うけどね。でも……そうだ。俺は知ってる。思い出した。記憶を集める天使。描きかけの天使の絵本。俺は君のことを、もっとずっと前から……知ってる」
「……! 貴様、私から記憶を奪っているのか……!」
思い出すのは、青い空。白い髪の小さな少女。他人の記憶以外なにもなかった少女を、俺がソラちゃんと呼んだんだ。……そうだ。俺は退屈していた。だから、彼女と一緒に探していた。彼女が探していたから、俺も──。
「……辞めろ。辞めろ。辞めろ! それ以上、思い出すな! 貴様が望んだことだろうが!」
ソラちゃんの手が俺に触れる。……熱い、燃えるように熱い手が、俺の腕を掴んだ。その瞬間、意識が途切れる。……忘れたい記憶。そんなものは、1つだってありはしない。俺は今まで一度も、後悔なんてしたことはない。忘れたいことなんて、何もないんだ。
……でも、ふと見えた記憶。
俺のものではない記憶。薄暗い部屋で膝を抱えて、泣いている少女。昔からずっと、泣き虫だった少女。俺はそんな少女を見捨て、他の少女を選んだ。いつだって俺は、彼女を選ばなかった。
「……ごめん」
と、言おうとするが言葉にならず、俺の意識はそこで途絶えた。
◇
「……こんなところで、何してるんですか? 貴方は」
なんて声で、目を覚ます。
「……誰だ? って、痛っ」
頭が痛い。身体も痛い。意識がふらふらとして、起きているのか夢を見ているのか判別がつかない。
「いや、違う。なんで俺、こんな所で寝てるんだ?」
目を覚ましたのは、家から少し離れた場所にある公園のベンチ。とっくに陽は落ちていて、自販機の明かりに虫が集まっている。
「……貴方、少しお酒くさいです。まさか、酔っ払ってるんですか?」
近くの少女が心底から侮蔑したような目で、こちらを見る。……誰だ? いや、違う。彼女は……鷹宮さんだ。うちのクラスに転校してきた可愛い女の子。なんでその転校生が、こんな所にいるんだ?
「くそっ、頭が痛い。なんだこれ。……いやでも、俺は酒なんて飲まないよ。未成年だし」
「じゃあどうして、こんな所で寝てるんですか?」
「……そっちこそ、どうしてこんな所にいるんだよ? 女の子が夜の公園に1人なんて、危ないだろ?」
「貴方には関係ありません」
前にどこかで、同じやりとりをしたような気がする。……でも、思い出せない。どうして自分が、こんな所にいるのか。何をしていたのか。……本当にちょっと身体から酒の匂いがするし、本当に酒を飲んで、ここでの寝落ちしたのだろうか?
「いや、ないない」
自分がそんな馬鹿な真似はしないと、俺は知っている。……知っているけど、何も覚えてない以上、否定することもできない。
「とりあえず、帰るか」
こんなところで自問自答していても、答えは出ない。さっさと帰ってシャワーでも浴びれば、何か思い出すかもしれない。
「そうしてください。いつまでもここにいられると、迷惑です」
「いや迷惑って、別にここは君の家じゃないだろ?」
「貴方の家でもないでしょう? 眠るのなら、自分の家で眠ったらどうですか?」
「…………」
完全に正論なので、反論できない。鷹宮さんもこんな所で眠ってる馬鹿に、説教されたくはないだろう。
「……あれ?」
ふと取り出したスマホを見て、違和感。……月曜日? 今日って、月曜だっけ? 確か鷹宮さんが転校してきたのが金曜で、土日は俺……何をしてたんだっけ?
「痛っ」
思い出せない。思い出そうとすると、頭が痛む。……どうやら本当に、体調がよくないようだ。
「あ、やば」
そこでスマホの充電が切れる。本当に早く、家に帰った方がよさそうだ。
「……貴方、体調が悪いんですか? 顔色が、あまり優れないようですが」
「そりゃまあ、こんな所で寝てたからな」
「…………ちょっと待っててください」
鷹宮さんはそう言って近くの自販機でお茶を買って、俺に渡してくれる。
「……ありがと。お金は後で返すよ」
「構いません。この前のプリンのお返しです」
「プリン?」
「くれたじゃないですか、前にここで」
「…………」
どうして俺が、公園で転校生にプリンをあげるんだ? そんなことをする理由に心当たりはないが、まあ奢ってくれるというのならお言葉に甘えよう。
「あー、美味い。なんかめっちゃ喉、乾いてたみたいだ」
「そうですか。それならよかったです」
鷹宮さんもベンチに座って、紅茶のペットボトルを開ける。空を見上げるが、今日は雲が厚くて月が見えない。
「そういや鷹宮さん、太宰治読んでたよね? 好きなの?」
「……別に。ただ何となく目についたから、読んでいただけです」
「そうなんだ。まあ俺は、あんまり好きじゃないけどね。なんか太宰って、陰気じゃん。坂口安吾とかの方が好きだな」
「捻くれてますね」
「真っ直ぐなのが、いいとは限らないからな」
もう一度、お茶に口をつける。少しだけ、落ち着いた。落ち着いたけど、やっぱり依然として何も思い出せない。
「……そうだな。あとは菊池寛とか好きかな。鷹宮さんは?」
「そもそも私は、あまり本を読みません」
「そうなんだ。ま、俺も最近はほとんど読んでないけど」
「そうですか」
「…………」
「…………」
そこで沈黙、共通の話題がないし、世間話をするほど仲がいいわけでもない。でもなんていうか、ここで立ち去ると、もう二度と鷹宮さんとこうやって話すことができない気がして、俺は無理に口を開く。
「鷹宮さんって、転校してくる前はどこに住んでたの?」
「……遠くです」
「そうなんだ。じゃあどうして、ここに引っ越して来たの?」
「貴方には関係ありません」
「あはは、だよね」
無理やり会話しようと試みるが、上手くいかない。やっぱり子のこと仲良くなるのは、難しそうだ。
「……って、やばい。雨だ!」
急に降り出してきた雨。一瞬で身体がびしょ濡れになるような、ゲリラ豪雨。俺たちは慌てて、自販機近くの屋根の下に避難する。
「うわっ、すごい雨」
空を見上げる。雨はしばらく、止みそうもない。
「さっさと帰るべきだったな」
と、俺は言った。
「自業自得ですよ」
と、鷹宮さんは大きく息を吐いた。
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