第29話 雨宿りと少女



 一歩先の景色が見えなくなるような激しい雨。ザーザーと響く音は頭を揺さぶられるくらいの衝撃で、思わず大きく息を吐く。


「……どうするかな」


 ここから家まで走って10分。まあ行けない距離ではないが、ただでさえ調子が悪いのに、無理をすると本当に風邪をひいてしまうかもしれない。


「貴方、家は遠いんですか?」


 と、高宮さんは言う。


「そうでもないよ。走って10分かかるか、かからないかくらい。まあこの雨だと、もう少しかかるだろうけど」


「そうなんですか」


「鷹宮さんは? 遠いの?」


「私は……私の家は、すぐそこにあります」


「そうなんだ。じゃあ、風邪ひく心配はないね」


「……そうですね」


 2人して空を見上げる。もう少し弱まったら走って帰ろうかなと思うけど、なかなか弱まる気配がない。


「俺さ、昔はこうやって雨を見るのが好きだったんだよ。今となっては何がよかったのか分かんないけど、昔は1人でよくこうやって雨ばっかり見上げてた」


「私は今でも、雨を見るのが好きですよ」


「そっか。ま、偶には悪くないよね。何もしないで、ものを考えるだけの時間を作るのも」


「…………」


「…………」


 そこで沈黙。やっぱり話すことがない。というかそもそも、屋根に当たる雨音がうるさくて、会話をするような状況じゃない。


「帰るか」


 いくら待っても弱まる気配はないし、だったらもうこのまま走って帰ったほうが早い。そう判断して、軽く伸びをする。


「この雨の中、帰るんですか? ……辞めた方がいいですよ。転んで怪我をするのがオチです」


「でも、いつまでもここで雨を見上げてる訳にもいかないだろ?」


「それはまあ、そうですけど……」


 何か言いたそうな、或いは言いたくなさそうな、鷹宮さんの表情。……よく見ると、下着が透けて見えてしまっているし、俺にさっさと出て行って欲しいのかもしれない。……いや、それなら引き止めたりはしないか。


「うおっ」


「きゃっ!」


 そこで、地面が揺れたのかと錯覚するような雷。鷹宮さんが怖がるように、俺の腕を掴む。


「あ、その……すみません」


「別にいいけど、雷、苦手なの?」


「雷というか……あまり大きい音は好きじゃないんです」


 そこでまた、雷。鷹宮さんの身体が、小さく震える。


「……うち、来てもいいですよ」


 と、鷹宮さんは言った。


「いや、流石に不味いでしょ。こんな時間に娘が男を連れて来たら、絶対に勘違いされる」


「大丈夫です。うち、誰もいないですから」


「……そうなの?」


 でも、それはそれで問題があるような……。


「目の前に家があるでしょ? あれがうちです。ほら、行きますよ」


 強引に腕を引っ張られ、雨の中へ。響く雷。鷹宮さんは逃げるように必死に、玄関を開けて鍵を閉める。


「…………」


 流れでついて来てしまったが、本当にこれでよかったのだろうか? まあ、今さら考えても仕方ない。来てしまった以上、節度ある行動を心がけるだけだ。


「ありがと、助かるよ。申し訳ないけど、傘とタオルだけ貸してくれない?」


「貴方、この雨の中、帰るつもりなんですか?」


「いやまあ、そうだけど……」


「……辞めておいた方がいいですよ。少なくとも、雷が止むまでは」


 それはまあ、そうかもしれない。


「じゃあ、上がらせてもらってもいい? 俺、結構濡れてるから、床とか濡れちゃうかもしれないけど……」


「構いませんよ。タオル取って来るので、待ってて下さい」


 鷹宮さんはそのまま、奥へと消える。あの子は思っていたよりずっと、無防備なのかもしれない。そして想像していたよりずっと、優しい子なのだろう。じゃないと、こうやって俺のことを思って、家にまで上げたりしない。


「……でもじゃあ何で、あんなに周りを拒絶するんだろうな」


 人には人の事情がある。下手に首を突っ込むべきではないとは思うが、どうしても気になってしまう。


「はい、これタオル。シャワーは向こうだから」


「え? ……いやいやいや。シャワーまで浴びさせてもらっていいの?」


「そんなびしょ濡れのままだと、風邪をひきます」


「それは、そうかもしれないけど……。でもだったら、まずは鷹宮さんが浴びてきなよ。びしょ濡れなのは、鷹宮さんも同じだろ?」


「……そうですね。じゃあ、少しだけ待っててください。すぐに浴びて着替えてきますから」


 俺にタオルだけ渡して、そのまま立ち去る鷹宮さん。なんか本当に、あの子が何を考えているのか分からない。……いやまあ、こんなびしょ濡れなまま上がられたら、普通に迷惑なだけなんだろうけど。なんか、無防備すぎて心配になる。


「うおっ、また雷。台風とか来てるんだっけな……」


 公園のベンチで目を覚ましてからしばらく経ったが、未だに何も思い出せない。土日の記憶。どうして俺は、あんな所で眠っていたのだろう?


「正確には、金曜の放課後から月曜の放課後までの3日間の記憶がないのか」


 昨日の夕飯が思い出せないなんていうのとは、訳が違う。スマホも充電切れたままだし、後で鷹宮さんに充電器を返してもらおう。


「あがりましたよ」


 と、そこでシャワーを終えた鷹宮さんが、玄関にやって来る。


「上がっていてもよかったのに、律儀に玄関で待ってたんですね、貴方」


「下手にソファとかに座ったら、濡れちゃうしな」


「そうですか。では、シャワーは向こうですから」


「ありがと」


 言われた通りに歩いて、シャワーを浴びさせてもらう。なんか知らない家で服を脱ぐのは妙に緊張してしまうが、言ってる場合でもない。


「あ、着替えどうしよ」


 あのびしょ濡れの服をまた着るのは嫌だが、他にないし仕方ない。流石に鷹宮さんに、貸してとも頼めない。


「着替え、ここに置いておきますから」


 と、脱衣所から声。


「あ、え? 着替えってあるの? お兄さんのとか?」


「私は一人っ子なので、兄はいません」


「だったらなに? お父さんのとか?」


「いえ、私が着なくなったジャージを置いておきます。多分、サイズは小さいとは思いますが、着れないことはないと思います」


「それはとても、ありがたいんだけど……。でもその……言いにくいんだけどさ、下着とかないでしょ? 俺がそれ、直接履いちゃって大丈夫?」


「……!」


 そこまでは考えてなかったのか、脱衣所から露骨に動揺した声が聴こえる。


「いや、その……大丈夫です。もう着ないやつですし、洗濯したら一緒なので」


「なら、その……着させてもらいます」


「はい。あと、服とか下着とかはそこの乾燥機に入れておけばすぐに乾くので、お願いします。ドライヤーとかも、勝手に使って大丈夫なので」


「……分かりました。何から何まで、ありがとうございます」


 どうしてか敬語になってしまう俺。なんか、無駄にドキドキしてる。鷹宮さんがさっき使ったであろうトリートメントの匂いなのか、やたらいい香りがするし。もうさっさと出てしまう。


 シャワー止めて、脱衣所へ。鷹宮さんの用意してくれたジャージは確かに小さいが、着れない訳じゃない。ありがたく、着させてもらおう。


「乾燥機って、これか」


 さっきまで着ていた服を入れて、スイッチを押す。これでしばらくしたら、乾いている筈だ。ついでに洗面所にあるドライヤーを借りて、髪を乾かす。……そこで何か、違和感。


「なんだ? この変な感じは……」


 鷹宮さんがどうとかではなく、この家に何か違和感を覚える。生活感がないというか、そもそも……。


「あ、歯ブラシが1本しかない」


 誰もいないと、鷹宮さんは言った。……それは今日は帰ってこないという意味ではなく、ずっと帰ってきていないという意味なのだろうか? なんか、闇が深そうな事情がありそうだ。


「まあでも、それこそ他人が深入りすることでもないな」


 ドライヤーを止めて、明かりがついているリビングに入る。すると、鷹宮さんは言った。


「今から夜食におにぎり作るんですけど、食べますか?」


「……頂きます」


 と、俺は答えた。窓から見える雨はまだ激しく降り続け、しばらく止みそうもなかった。


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