第19話 海と空



 綾川 いのりは、ドキドキしていた。



 海に行こうという唐突な春人の言葉。どうしてバイクに乗っているのかという疑問。そもそも春人がバイクの免許を持っていることすら知らなかったいのりは、露骨に困惑した。


「ほら行くぞ、いのりちゃん!」


「……わかりましたよ」


 普段とは別人みたいに強引な春人を拒絶することができず、いのりはヘルメットを被ってバイクに跨る。思っていたよりも静かなエンジン音と共に、バイクが走り出す。


「先輩、バイクの免許持ってたんですね」


 と、いのりは言う。


「高校入学してすぐ取ったんだよ」


「また退屈しのぎですか?」


「そんなとこ。ちょくちょく乗ってはいたんだけど、最近はあんまり乗ってなかったからなー。いのりちゃんが知らないのは、当然か」


「でも、どうして海なんです?」


「……うーん。なんとなく?」


「適当ですね」


「いいんだよ、適当で」


 バイクの速度が上がる。驚いて思わず、春人の背中に抱きついてしまう。ドキドキと、心臓が高鳴る。


「いのりちゃん、もっと周りの景色を見てみなよ? 景色が流れていくの、すっげー気持ちいいぜ?」


「……でも、ちょっと怖いです。私、バイク乗るの初めてだから」


「大丈夫大丈夫。まだ大した速度出してないし、俺は安全第一で運転するから」


「…………」


 恐る恐る、視線を上げてみる。見えるのは見慣れた街。見慣れた景色。駅前の繁華街が見えなくなって、オフィス街が流れていって、世界がどんどん静かになる。


 ……綺麗だなって、そう思った。


「綺麗だろ? バイク乗るとさ、景色が流れて、身体が軽くなったような気がするんだよ。速度で言うなら電車の方が速いのに、自分が誰より速くなったような気にさせてくれる」


「あ、今、軽自動車に抜かれました」


「マジかよ。ちょっと抜き返すか」


「やめて下さい! 安全第一の運転なんでしょ?」


「そうだった。……でも、悪くない気分だろ?」


「……はい」


 心臓がドキドキする。それが春人の背中に抱きついているからなのか。それとも初めてのバイクに緊張しているだけなのか。或いは、流れていく景色に圧倒されているのか。……多分、その全部。


 感じる全てが、いのりの心臓を高鳴らせる。


「でも本当に、どうして海なんですか? 海開きにはまだ早いですよね?」


「ちょっと見せたいことがあるんだよ。それに、ツーリングにはちょうどいい距離だろ?」


「……ですね」


 このペースで走れば、海まで1時間もかからない。海は意外と近くにあるのに、去年は一度も行けなかったな、といのりは小さく息を吐く。


「…………」


 中学最後のバスケの大会。高校でも頑張ろうって、去年みんなに言ったんだ。


「頑張ってたのにな……」


「何か言った?」


「何でもないです!」


 そこからは無言で、ただ景色を眺めた。知ってる景色。知らない景色。暑いけれど、風が気持ちよくて、どこか遠くへ来てしまったような気になる。


「いい風……」


 このまま2人で、どこか遠くへ行きたいな、といのりは思った。でも、そんな恥ずかしいことは口にはできないから、誤魔化すようにぎゅっと背中を抱きしめる。


 そして気づけば潮風が吹いて、青い海と砂浜が見えた。


「よいしょっと。お疲れ、いのりちゃん」


「あ、いえ。先輩こそ、運転お疲れ様でした」


 ヘルメットを外す。髪が潮風になびく。……心地いい。


「さて、じゃあやるか」


「やるって何をです? 追いかけっことかするんです? ……って、その前に日焼け止め塗らないと」


 一応、朝から塗ってはきているが、念のためもう一度塗っておく。その間に春人はバイクの収納スペースから、とあるものを取り出した。


「はいこれ、いのりちゃんの分ね」


「え? 何で、スケッチブック? 今から絵でも描くんですか?」


「そう。実は俺、絵も描けるんだよ。そこのベンチ空いてるし、コンビニでいろいろ買ってのんびり絵でも描こうぜ?」


「えー」


 またしても唐突な言葉。なんだかよく分からないけど、断る理由もないので、そのままコンビニで買い物をしてベンチに座る。


「海と空って、意外と描くの難しいんだよ。今日は色鉛筆しか持って来てないし」


「私、絵とか全然、描けないですよ? いのりちゃんは芸術方面はからっきしです」


「そうなんだ。ま、でも描いてみると意外と楽しいもんだぜ?」


「……まあ、先輩がやれって言うならやりますけどね」


 絵なんて描くの久しぶりだなーと思いながら、いのりは鉛筆を握る。どこから何を描けばいいのか分からないので、とりあえず目についた名前も知らない鳥なんかを描いてみる。


「……宇宙人?」


 うーん、我ながら下手だ。といのりは小さく笑って、サンドイッチを口に運ぶ。今日は食べてばっかりだなーと、また笑ってしまう。


「せんぱ──」


 隣に座る春人の方に視線を向けて、思わず口を閉じてしまう。思っていたよりもずっと真剣に、春人は絵を描いていた。……思えばこんな真剣な顔は、初めて見た気がする。


「ん? どうかしたの? いのりちゃん」


「……いえ、集中してるところ、邪魔しちゃってすみません」


「別にいいって。お遊びでやってるだけなんだし。……ほら、俺の唐揚げ一個あげる」


「ありがとうございます」


 差し出された唐揚げを飲み込む。また、潮風が肌を撫でる。まるで時間がゆっくりと流れているように、穏やかだ。


「その……先輩」


「なに?」


「いや、いいですか? 私なんかに構ってて。先輩、記憶が失くてなんかいろいろ大変なんですよね? それなのに、こんなところでのんびり絵を描いてる暇、あるんですか?」


「あるじゃん、今」


「それは、そうなんですけど……」


「ごめんごめん、意地悪言った。……まあ確かに大変だけど、でもいいんだよ。結局、今やらなきゃって思ったことより大切なことなんて、どこにもないんだから」


「先輩って、偶にかっこいいこと言いますよね」


「言ってるだけだけどな」


「……ちゃんと、かっこいいですよ」


 なんで言葉は恥ずかしいので、言えない。けれどそれでも想いは伝わるようにと、少しだけハルトの方に近づく。


 照りつける太陽が熱い。それからしばらくそんな風にたわいもないことを話しながら、2人で絵を描き続けた。


 そして。


「できたっと」


 ハルトがいきなり、立ち上がる。思っていたより絵に集中していたいのりは、ビクッと身体が震える。


「急に立ち上がらないでくださいよ。びっくりするじゃないですか」


「ごめんごめん」


「別にいいですけど……って、先輩、絵うまっ。なんですか、画家にでもなるつもりですか」


「こんなんで画家にはなれないよ。けどまあちょっと頑張ったし、もっと褒めてもいいぜ?」


「そんなことを言われると、急に褒める気なくなります」


「いいじゃん、もっと褒めてよ。……っと、いのりちゃんもよく描けてるじゃん」


「ばっ、見ないでください!」


「隠すなよ。せっかく描いた絵だろ?」


「ダメですー!」


 わちゃわちゃと騒ぐ。嫌なことなんて全部忘れてしまうくらい楽しい時間。春人は大きく伸びをして、遠い海を見つめる。


「いのりちゃんにはさ、見せたことなかっただろ? 俺が頑張ってるとこ」


「……頑張ってるっていうか、まあそうですね。先輩が何かに一生懸命なところって、初めて見た気がします。いつも気がついたら、辞めちゃってるんで」


「そう聞くと、ただの飽き性にしか聞こえないな、俺」


「実際、そうじゃないですか」


「まあそうなんだけど。でも、バイク乗ってるとことか、絵を描いてるとことか、そういうのをいのりちゃんに見て欲しかったんだよ」


「どうしてです?」


「かっこいいかなっと、思って」


「なんですか、それ。ふざけてます? それとも自慢ですか?」


「真面目に言ってる。俺じゃなくても誰でも、やっぱり真面目に頑張ってる姿はかっこいいじゃん。特に俺は何かを続けるって苦手だからな。すぐに退屈を見つけて辞めてしまう」


 一際、強い風が吹き抜ける。春人が真っ直ぐにいのりを見る。


「だから今度はさ、いのりちゃんが頑張ってるとこ見せてくれよ。いのりちゃんが頑張ってバスケしてるとこ、俺は見たい」


「それは……」


「ずっと頑張ってきたんだろ? だったらいのりちゃんは、俺なんかよりずっとかっこいいよ。……嫌がらせして笑ってるだけの女になんか、絶対に負けない。俺が保証する」


 優しく笑う春人。


「先輩は……やっぱり、ずるいです」


 初めはただの憧れだった。友達のかっこいいお兄さん。1つ上のかっこいい先輩。いのりは一人っ子だったから、兄というものに憧れていた。


 でも、そうかと気がついた。こんなに胸が痛むのは、この人が……あまりにも真っ直ぐだから。


「今度、バスケ部に見学に行くよ」


「……私の可愛いユニフォーム姿を見にですか?」


「そ。いいだろ?」


「……仕方ないですね。…………私の、可愛いユニフォーム姿に悩殺されても……知りませんからね」


 声が震えてしまう。けれどここで涙を流すわけにはいかないから、顔を上げて笑った。


「よしっ、じゃあ帰ろっか」


「……ですね。実は私、もうクタクタです」


「あははは。バイクで寝るのは危ないから、気をつけてね?」


「流石に眠りはしないですよ。……そうだ。先輩のその絵、もらってもいいですか?」


「別にいいけど、将来価値とか出たりしないよ?」


「いいんです。ただの記念ですから」


 今度こそ、心からいのりは笑った。風が吹いて、空が青い。心地のいい風が、胸の奥で溜まっていた重いものまで吹き飛ばしてくれる。


「頑張ろう」


 と、いのりは思った。……もしかしたら、この恋は報われないかもしれない。でも、それでもこの人の、力になりたいと思った。今度は情けない姿じゃなく、かっこいい姿を見せてやるぞっと、いのりは笑った。


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