第7話 熊に抱かれて

「ほう」

 男が仮面の奥の目を細めた。

「面白い。瞬時にそのように独創的な死に様を考案するとは、この組はなかなか優秀だな」

「でも、そんなことが本当に……?」細面の若い女は、小首を傾げてぱちぱちと瞬きをした。

 男は脱いだトップハットを逆さにすると、つばの両端を持って、くるりと回転させた。そして


 小山のような、影


 気が付けば、彼女はコワい毛に覆われた丸太のような腕に抱きすくめられている。

 けたたましい悲鳴と、がたがたと椅子が倒れる音とともに、彼女と小山の周辺からは、蜘蛛の子を散らしたように人がいなくなる。

 大きな熊だ。

 後足で立てば、二メートルをゆうに超える巨漢、ヒグマだ。

 獣の臭いに圧倒されて、彼女の呼吸は止まる。ぐるぐると不穏な音が半開きの口から漏れている。生温かい液体が彼女の顔に降り注ぐ。

 涎

「ああ、そうだ。これを忘れていた」

 男の声がすぐ近くでして、彼女の鼻の上に硬い物質が、懐かしさを感じる重みで置かれた。

 突然、視界がびっくりするぐらい鮮明になった。眼鏡だ。これまで見るものすべてに霞がかかったような不快感を覚えていたことに初めて彼女は気付いた。そして、彼女を覗き込んでいる大きな毛むくじゃらの顔を、改めて見返す。

 顔も、大きい。大きくて、丸い。どんぐりのようなまなこに、湿った黒い鼻先。近すぎて全身像が眺められないことだけが残念に思える。


 なんて美しい生きものだろうか


 彼女は、束の間思い出す。彼女は獣医師だった。ヒグマがどれほど恐ろしい生き物かは、もちろん知っている。だが、その堂々たる体躯、動画配信サイトで何度も視聴した、数百キロにもなる重い体をぶるぶるふるわせながら四つ足で走る時の躍動感や疾走感――そこには抗い難い魅力があった。

 そして今、ひそかに夢想していたように、彼女はその堅牢な腕に抱きかかえられている。眼鏡のお陰で、ごわごわした毛の中に囚われた針葉樹の葉や、土埃、口の端に溜まった水滴まではっきり見える。がっちりと抱え込まれた体は動かすことができなかったが、手を伸ばしてそのぶ厚い毛皮に指を這わせてみたかった。彼女の震える口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。腕に食い込む爪が、コットンの生地を突き破って肉に食い込んでいたけれど。


 熊が動いた。その巨体からは想像もつかないほど素早かった。


 熊はまず彼女の顔面に齧りついた。牙がレンズを砕いて彼女の右目に突き刺さり、フレームが歪んだ眼鏡ごと顔面の皮が剥ぎ取られる。無事だった左目が、眼窩からぎょろりと熊に向けられる。筋肉の支えを失った下顎がぱっくり開いて、ぬめぬめと輝くピンク色の舌が突き出された。

 獣の頑丈な顎と牙は、彼女の下顎ごと舌を咬み千切った。舌を失っても、彼女の絶叫は、ややくぐもった音に変わっただけで、止みはしない。

 さらに、前足の鋭い爪が、彼女の柔らかな腹に爪を立て引き裂いた。内臓がこぼれ落ちそうになったところへ、熊が鼻面を埋めて、軟らかい肉にかぶりついた。どくどくと血が溢れ出て、熊が頭を左右に振ると、赤い滴が飛び散り、長く連なる腸が引きずり出された。今や彼女のほっそりした体は床に押し倒され、血と脂肪、胃や腸の内容物の臭気が食堂内に立ち込めている。かつて彼女が無麻酔で手術した動物たちの大きく見開かれた目が、束の間浮かんで彼女を見つめ返して、消えた。


 叫んでいるのが襲われている女なのか、それ以外の女たちなのか、もはや誰にもわからない。


 食堂の隅でひと固まりになった女たちは、先ほど夢中で食べたご馳走を床にぶちまけ、頭を掻き毟ったり、耳を塞いで目を背けたりするが、それでも獣の唸り声と、女の悲鳴は消すことができない。

「むごいことを。ひとおもいにとどめをさしてやりなよ」

 さすがに顔色を失った四十女が男に詰め寄るが、仮面の下の顔は残忍な喜びに包まれ、上機嫌だ。

「望みを叶えてやったんだ。感謝してほしいね」

 恍惚の表情を浮かべた男は、四十女を横目でちらりと見てから、食堂の隅で震えている一団に歩み寄る。

「見ての通り、どんな死に方でもいい。望み通りの死を迎えさせてやろう。次は誰だ」


 凄まじい悲鳴を上げ続けていた犠牲者が、静かに体を痙攣させるだけになった。夢がかなって幸せだったのかどうかは、もはや確認のしようがない。


「誰もいないのか。せっかく選ばせてやろうというのに。おれは気が短い上に、慈悲なんて持たない男だ。なんなら、こちらで考えてやってもいいんだぞ。かわいい熊さんに抱かれておけばよかったと思えるような非業の最期を。できるだけ時間をかけて、じっくり苦しむように。言っておくが、自ら希望を出せるのは、早いもの順だ。同じ死に方は許さない」


 男の言葉に女たちはパニックに陥った。ぺちゃくちゃと熊が行儀悪く咀嚼する音をバックに、女たちは男の周囲に群がった。

「わ、わたしは――」

「お願いしたいのは――」

「希望は――」

 しかし、その先が続かない。理想の死に方なんて、そう簡単には思いつかないからだ。口をぱくぱくさせるばかりで、誰もその先を続けることができない。


「ねえ、本当に、どんな願いもかなえてもらえるの」


 まだあどけなさの残る若い女だった。小柄なので十代にも見えるが、注意深く観察すれば二十歳そこそこといったところか。ベリーショートの髪と華奢な体つきが中性的な印象を与える女だ。

「ああ、もちろん。見ての通りだ」男は熊の方を顎で示したが、そちらを振り向く者はいない。

「本当に、本当ね?」

「しつこいなあ」

「約束して」

「いいとも」

 男はうんざりした顔で頷いた。


「だったら、わたしは、ゆりかごに揺られるように、穏やかに死にたい。眠るように、安らかな死。それがわたしの望み。痛いのや苦しいのはいや。約束したんだから、守ってくれるのよね?」

 ピンク色に上気した女の片頬がぴくぴくと痙攣していた。他の女たちは、彼女の勇敢さに舌を巻きつつ、嫉妬にかられていた。あの女は大胆な取引をもちかけて、うまいことやった。たしかに、わざわざ苦痛に満ちた死に方を選ぶ必要はない。すっかり叫ぶのをやめた熊娘は、頭がおかしかったのだ……


「ああー……」男は顎に指先をあてて思案顔になったが、やがて頷いた。

「ゆりかごか。いいだろう」


 女は瞳を潤ませ、祈るように胸の前で手を組んだ。それは、ブロンドの髪(おそらく染めているのではない天然色)に透き通るような白い肌を持つ彼女の清らかな見た目に合っていると、誰もが思った。そんな死に方ができるのならば、悪くない。少なくとも、あんな死にざまを見せられた後では、相手の気の変わらないうちに、少しでも楽な死に方を考案してさっさと死んでしまった方がマシだと思える。


 熊は腹いっぱいになったらしく、大きな体をまるめて居眠りを始めていた。血だまりのなかには、まだ女の体が部分的に残っている。


 男が指を鳴らすと、くうを切る音を立てながらロープが下りてきた。ロープの先は輪っかになっており、その輪が祈りのポーズをした女の細い首にかけられると、きゅっと締まった。

「ぐふっ」

 清らかな顔に似合わぬ呻き声を喉から発し、ロープに引っ張られた女の華奢な体は転倒し、そのまま引きずられて食堂の外に出て行った。


「おっと、言い忘れていたが、『穏やか』だの『安らか』だのっていうのは、却下だ。お前たちは皆罪人だと言っただろう。安楽死はだめだ。それなりの苦痛は味わってもらう」


 男は愉快そうにげらげら笑った。

 ぽかんとした顔で華奢な女が扉の向こうへ姿を消すのを見送った女たちが、我に返ってあとを追いかける。ぴんと張ったロープの反対側の端を持っている者の姿はないのに、女の体は、長い廊下を有無を言わさぬ力で引きずられていく。

 女は首に食い込む縄にどうにか細い指をねじ込もうとするが、うまくいかない。目に見えぬ力で引きずられていく彼女に、誰も追いつくことができない。


 食堂には、ジェーンと幼い少女、その少女にアビーと名付けられた女が残った。少女はアビーにひしとしがみつき、アビーも青ざめた顔で少女の細い肩をきつく抱きしめている。

「なんてことを」

 ジェーンは呟く。

「少し考える時間を与えてやろう。ただし、生半可な望みは、却下する。他の者のアイデアにぶら下がるのもなしだ。早い者勝ち。タイムリミットが来たら、おれがかわりに考えた方法で死んでもらう」

「例外は、ないっていうの。子供も、老人も」アビーは震える声で問う。

「ないね。言っただろう。ここは、罪人が送り込まれるところだから」

 男の無慈悲な言葉に、アビーは子供を抱く腕に思わず力を込めた。

 男は、満腹になっていぎたなく眠り込んでいる熊の大きな尻を軽く蹴った。

「さあ、ベッドに行こうか。残りは、明日食べればいい」

 男は、自分の帽子を熊に被せてやると、毛むくじゃらの太い腕をとった。眠そうな熊と肩を並べて食堂を出ていく途中で、男は振り返った。


「ああそうだ。これも言い忘れていたが、お前らの中には、毒殺魔が混じっている」


 そうと知ったところで、どうしようもないだろうが、と男は熊に話しかけながら退場していった。


 廊下の方から、硝子の割れる派手な音が聞こえてきた。

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