DAY 5

第22話 マーダー・イズ・デリシャス

殺人マーダー?」ベッドの上で上半身を起こし、両手をせわしなく動かしながら老女は言った。

わくわくするわねハウ・デリシャス

 書き物机の椅子をベッド脇に移動させ腰かけているアビーは眉を顰めた。

わくわくデリシャス?」

「あらまあ、不謹慎だったわね。続けてちょうだい」

「まだ若い女性でした。恐らく、少女と言っていい年齢、十八歳未満でしょう。顔は損傷が激しくても、身体は概ね無事でしたから」

「概ね? 調べてみたのね?」

 ジェーンの薄いブルーの瞳が爛々と輝くのを見て、アビーは溜息をついた。


 昨晩、無残な亡骸を一目見てアビーは部屋を飛び出した。胃がむかむかして、吐きそうだった。だが、自部屋に戻って、レーコの隣で体を丸めているプリンセスを眺めている間に、高ぶる気持ちが落ち着いてきた。

 そして彼女は現場に戻り、その部屋が施錠されていること、それをしたのが赤毛の女であることを知ると、女の部屋に急いだ。

 しつこくノックし続けると、鬼の形相の赤毛の女がドアを細く開けた。

「現場検証がしたいの」

「明日にしな」

「証拠が損なわれてしまう。これは時間との闘い。わかっているでしょう」

 赤毛は唸り声をあげると、一旦室内に戻り、再び姿を現した。

「鍵をかけておくんだよ」と室内に声をかけたが、誰がいるのかはわからなかった。


 現場を施錠したのは、呆けた老女がまた「食事」をしに戻ると困るからだと道すがら赤毛は説明した。そして呆けた老女は、老女自身の部屋のベッドに拘束したと。

「年を取って耄碌した人間は見たことがあるが、いくら空腹だったからといって、たまたまそこに死亡した人間を発見して、これ幸いと喰らい始めるだろうか」赤毛は件の部屋のドアの鍵を開けながら言った。「しかも、顔から」

「たまたま死亡していた? あの老婆――コーデルが殺したわけではないの?」

「自分で見てみるがいい」


 室内は、アビーが一目見て飛び出した時とさして変わりなかった。発見時に遺体の顔を食べていたというコーデルは、アビーが駆けつけたときは既に赤毛の女に連れ出されていたし、異なっているのは、自身も呆けてしまったが如く床にへたり込んでいたミッシーの丸い背中が消えているぐらいだろうか。

「他の女たちは、現場を荒らしてない?」

「さあ、知らないよ。勝手に中に入らないように言っておいたけど、あたしは暴れる婆さんを抱えて別の部屋に運ぶために留守にしてたから。そこの若い女は、死んでからしばらく経過しているみたいだったし。どうやって死んだかはわからないが、ここじゃ女が死ぬのは珍しくないだろう」

「それはそうね」


「どうして『死んでからしばらく経過している』とわかったのかしら」ジェーンはアビーの回想を遮って尋ねた。

「それは、硬直した体が弛緩し始めて、背中には死斑がくっきり表れていたからです。腐敗臭はまだそれほどでもありませんでしたが、死んだ直後ではないということは、素人目にもわかります。室内の暖炉は使われた形跡がありませんでした。つまり、死後の肉体の変化を加速させたり遅らせるような要因はとくになかったということです。あの遺体は、哀れなコーデルの手にかかった時点で既に死後二十四時間以上経過していたであろうと思われるんです」

「では、その娘さんが亡くなったのは、一昨日、わたしたちがこの館に来て三日目のことだったというのね。それで、あなたはそれが、重要だと思うの?」


 ジェーンの問いにアビーははっとした。


「いえ、こんな、時間の経過もよくわからない館で、全員のアリバイを確認して犯人探しをしても意味のないことだと思います。でも、少なくとも、コーデルがあの少女を殺して食べたのではない、あるいは、彼女が食べている間に娘が死んだわけではないということは、証明されたと思うんです」

「そうね。それは重要なことね。ただ」

 ジェーンの思案顔に、アビーは顔を曇らせた。ジェーンはその先を続けなかったので、アビーは再び現場の状況を説明し始めた。

 遺体が素裸で使われた形跡のないベッドカバーの上に横たわっていたこと、支給品のワンピースはクロゼットの中に吊るされたままだったこと。なかでも鏡が割れて破片が飛び散っていたことにジェーンは強い興味を示したようだったが、何も言わなかった。

 さらに、直接の死因は、左の眼窩――眼球は左右共に失われていた――にできた刺し傷で、何か細長い凶器が脳に達するほど深く突き刺されたからだと思われることを告げられたジェーンは、おう、と低く呟いた。


「凶器は、何かしら。細長いものねえ。例えば」ジェーンは無表情に二本の編み棒を動かしながら言う。

「残念ながら、その編み棒では細すぎると思います。もう少し平たいブレード状のものかと。食事で使った、あの銀製のナイフとか」

「残念だった?」

「いえ。それから、遺体は右の手首を骨折していました。これは、生きている間の怪我で、恐らくこの館内で負った傷、そして治療を受けた形跡はありませんでした」

「キュリオサー・アンド・キュリオサー、ね」

面白いキュリオスですか」

「ええ、なんだか、十は若返った気がするわ」


 ジェーンの頬は興奮のため色付き、ブルーの瞳は潤んでいた。


「どうして鏡が割られていたのか、それがこの事件を解く鍵ね」

「犯人と格闘して割れたのでは?」

「室内に格闘のあとはあった?」

「いえ……」アビーは記憶を手繰りながら答える。

「でも、彼女がなぜ殺されたかなんて、重要なのでしょうか。わたしたちはみんな記憶を失っている。彼女のことはもちろん、自分が誰かもわからない」

「だからこそよ。化粧台で自分の顔を見た時のことを覚えてる? これが自分の顔だとは到底思えなかったわ。そんな状況で、鏡を壊すのはなぜかしら。まったく意味のない行動よね」

「そう言われれば、そうですね」

「それがわかれば、被害者が何故姿を隠していたかもわかるでしょう」

「では、あの娘が、ジェーンさんの言っていた」

「大広間から食堂に移動するまでに姿を消していた女。間違いないわ」

「まったくもう、お手上げです」


 アビーは大袈裟に肩をすくめて天を仰いだ。


「仮面の男は、わたしたちの中に毒殺魔がいると言っていましたが、このはなんなのでしょうか。毒が使われた形跡はありません。もちろん、近代的器具がなければ正確にはわかりませんが」

「毒を飲ませて、弱らせてからでないと殺せないような、小さくて非力な人間だったのかしら」

「そんな」アビーは顔色を変えた。

「まさか、プリンセスがそんなことをすると思っているんですか? あの子は確かに、変わった子です。でも、そんな大それた、邪悪なことを」

「わたしは、自分みたいな年寄りを念頭に置いていたんだけど」

 ジェーンは静かに言った。その手は、絶え間なく動き、ピンク色のふわふわした何かを編み上げている。


 それから程なくして、コーデルが殺されているのが発見される。そうして、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

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