第21話 現世はゆめだが、夜の夢もまたゆめ

 長い廊下を歩いている。放課後、校舎内に残っている生徒は少ない。彼の姿を求めて、麗子は空の教室から教室へと渡り歩いている。

 彼というのは、麗子の通うこの高校の教員、フランス人とイギリス人のハーフだが父親の仕事の関係で幼少期を日本で過ごしたために日本語がぺらぺらな、超イケメン数学教師。クールで俺様な彼だけど、みんなには内緒で二人は付き合っている。


 設定が無茶苦茶だと思わなくもないが、そんなことはどうでもいい。これは、夢の中の話なのだから。


 彼は他の乳臭い女生徒達には目もくれない(ロリコンの変態じゃないから!)が、ただ一人麗子を溺愛しており、学校が終われば彼の高級マンションに行って、心行くまでラブラブする――といいたいところだけど、教師としては厳しい男なので数学の宿題をまずやらされることになる。そういう生真面目なところも、愛おしい。

 これは夢であると自覚しながら見る夢を明晰夢という。

 麗子はこれが儚い夢であることを知っている。そして、束の間の夢から覚めた後に何が待ち受けているのかは、考えないようにしている。


 彼は一体どこに行ってしまったのか。


 背が高いから、見過ごすはずはないのに。こうして、やらなければならないことがあるのに一向に成果を上げられず焦燥感を募らせるところは、通常の悪夢のようだ。


 やめてよ、悪夢は、目が覚めたあの世界の方でしょうが!


 熊や地震といった記憶を、麗子は意識の下の方に押しやる。まだ目覚めたくない。この甘美な夢をしゃぶりつくして、その代金を支払うのは、それからだ。何を代償として求められるのか、彼女は知らないし、知りたくもない。


 長い廊下を歩いている。


 女たちの部屋のドアがずらりと並ぶ真っ直ぐな廊下は、光源がどこにあるのかわからない薄明りに照らされている。

 扉はどれも同じに見える。唯一の例外は、ドアごと取り替えられたという、廊下の端にある老女の部屋。この中から自分に割り当てられた部屋が瞬時にわかるのは不思議なことだとミッシーは思う。

 プリンセスが彼女をミッシーと名付けたことを麗子は知らない。恐らく五十代、髪に白いものが目立つが、背が高くかくしゃくとしている。その女性が、気ぜわしげに長い廊下を歩いている。時間はわからないが、どうやら就寝後、更けた夜の気配が漂っている。

 ミッシーは麗子の傍らを通り過ぎる。まるで、彼女の姿が見えていないかのように。麗子はミッシーの後を追い始める。


 左手側に並ぶ扉の向こう側から、様々な音がする。


 就寝しているらしく沈黙に包まれている部屋が多いが、忍び笑いや嬌声、歌声(酔っぱらってる?)、嘆き悲しむ嗚咽が、閉ざされた扉から漏れ聞こえてくる。

 ミッシーは廊下を進みながら、時折立ち止まっては、そのような物音に耳を傾ける。


 盗聴? そんなヘンタイには見えないけど。


 背後を歩く麗子から見えるミッシーの横顔は不安げだ。とても盗み聞きを楽しんでいるようには見えない。

 と、扉の一つから、小さな人影が現れた。麗子にも見覚えのある顔だった。

天使様エンジェル――いいえ、プリンセス」初老の女の声には、安堵の響きがあった。


 エンジェル? プリンちゃん、出世魚みたいに名前が変わっていくシステム?


 書斎の本で頭部を負傷して以降の出来事を、麗子は知らない。

「コーデルを探しているんです。見ませんでしたか? 気づいたらベッドがもぬけの空になっていて。お腹が空いた、ご飯はまだかって落ち着かなかったけど、ようやく眠ったと思ったのに。夕食はしっかり食べたんですよ。困ったものです。あの、プリンセス?」

 幼い少女は、ミッシーの顔を上目遣いに見つめるだけで、何も言わなかった。そして、ふいと小走りに去っていった。

 彼女が出てきたドアは、プリンセスとアビー(そして麗子)の部屋のものではなかった。

 ミッシーはしばらく扉の前でためらっていたが、ゆっくりとドアノブに手を伸ばした。


 麗子は、プリンセスが彼女の存在を無視して走り去るのを見送ったあと、ふと少女が出てきた隣のドアに意識を向けた。音がしている。ぎしぎし、みしみし。それから、苦しそうな声。ああ、ちがう、これは苦痛の声じゃなくて

 女が高い声で叫び始めた。ちょっと、うるさい。顔をしかめた麗子は、隣の部屋のドアをそっと開けて中に入ろうとしている初老の女性の方に再び注意を向けたが、騒々しい声を上げてお楽しみ中の部屋から聞こえた男の声に凍り付いたようになった。


 なんで、男が?


 ここには、女しかいないはず。唯一の例外は、あの男。麗子の夢の中で、完璧な彼氏を演じている、あの男。

 麗子はミッシーが姿を消した部屋より、一つ手前の扉に手をかける。静かにノブを回して押すと、抵抗なく開いた。室内は暗いが、廊下の灯りが狭い部屋の奥、壁際にあるベッドまで届く。女の生白い足、それを押し開いてのしかかっている黒い大きな塊。その塊が、振り向くと


 熊


 熊だ。食堂でイカレ女を喰った、あのデカい顔が、長い牙を剝いて麗子を見据えていた。ぎしぎしみしみしと、音はやまない。熊に組み敷かれた女は、体をのけぞらせ声を上げていたが、ドアから漏れる灯りに気付いたのか、麗子に向けたその顔には、鼻が、なかった。


 けたたましい悲鳴にアビーは叩き起こされた。叫んでいるのは、ジェーンが相部屋を拒否したためにベッドを独り占めしているレーコだった。

「顔が、顔が、崩れてる」

 東洋の娘は、きつく目を閉じたまま、ベッドの上で暴れていた。その姿は、寝たきりになってまだほんの三日だというのに、やつれ果て、体は骸骨の標本に皮を被せたみたいにやせ細っていた。

「ひどい。あんな女とヤるなんて。病気、病気なの、あの女は。ああいやだ、鼻が、まるで、陶磁器の人形から、鼻だけ欠けたみたい。うつるの、あれ。いやいやいやいやー」

 暴れる体をベッドの上でどうにか抑え込んだが、細すぎる手首は力を込めたら折れてしまいそうだ。レーコの体からふいに力が抜ける。失神したのか眠りに落ちたのかわからないが、アビーはほっと息をつく。昏睡状態のまま一度も目覚めていないが、折に触れて寝言を叫ぶ東洋の娘を少々もてあましている。それでも、げっそりと落ちくぼんだ眼窩や頬を見れば、とても今放り出すことはできないと思う。

 プリンセスの姿がないことに気付いたのは、床に毛布を敷いた簡易寝床に戻ろうとした時だ。隣で寝ているはずの幼子の姿が、狭い室内のどこにもない。


 こんな夜中に、一人でどこへいったのか。


 心配よりも怒りがこみあげてくる。「ごめんなさい、もう二度としない」そんなことを涙ながらに哀れっぽく訴えて、舌の根も乾かぬうちに。だから子供は好きになれないのだ。嘘つきで我儘、大人にちやほやされるのが当然と思っている甘ったれた子供たち。そんな子供は、見捨てられて当然であり


「可哀想になんて、一度も思わなかった」


 爪が掌に食い込むほど握りしめていることに気付き、アビーは肩の力を抜いた。何を言っているのか、自分でもわからない。今は、あの少女を探さなければ。一人だけ生き残ることができると、自らに死刑宣告をした愚かな娘に。


 廊下に出ると、女たちが部屋から出て来ており、騒然としていた。嫌な予感が胸をよぎり、アビーは無力な少女のことが心配でたまらなくなった。

「一体、どうしたの。なにがあったの」

 女たちに問うてみるが、まともな返事は返ってこない。廊下を進むうちに、騒動の元と思われる部屋の前に女たちがたむろしているのが見えた。

「まさかそんな」

「でも、あれは熊の仕業じゃないよ」

「じゃあ何だって言うんだい」

「なんでも、コーデルとかいう頭のおかしい女が」

「赤毛がシーツでぐるぐる巻きにして連れて行ったよ」


「ちょっと、どいて、すみません」女たちをかき分けて、アビーは部屋の中に入ったが、すぐに踵を返して真っ青な顔で出てきた。


 プリンセスではなかった。でもあれは、一体――


 室内には、まだ若い女と思しき死体がベッドに横たわっていた。その顔は、動物に食い荒らされたかのように、ずたずたになっていた。たとえ知り合いだったとしても、認識できないぐらいに。

 ベッドの傍らには、ミッシーが床にべったりと座り込んでいた。力なく背中を丸めている様は、一気に二十も歳をとったように見える。

「ああ、コーデル、なぜこんな恐ろしいことを」

 初老の女は、震えながら呟いていた。彼女の周囲には、鏡の破片が散らばり、化粧台の鏡はひび割れていた。


 廊下に出たアビーは、胸のムカつきを懸命に抑えていた。こんなところに消化途中の夕食をぶちまけたくはない。

 無残な遺体の横たわる部屋の向かって左隣のドアが開いて、女が顔を覗かせた。その顔は上気して、瞳は潤んでいる。そして、全身から立ちのぼる、におい。


 あたかも、情事のあとのような。


 こんな女だらけの場所で、一体誰とそんなことをするというのか。廊下の薄暗い灯りのせいで顔色が酷く悪く見えたが、ぽっちゃりした巻き毛の女だった。慌てて着たみたいに乱れたワンピースの前が膨らんでいるようにみえたが、アビーはそれ以上気にせずに部屋に戻った。


 室内には、プリンセスがレーコの隣に潜り込んで、目を閉じていた。

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