第10話 蜘蛛の糸

 四人並んでベッド(シングル)で寝ようという東洋の娘の提案(「みんなで川の字になって――あ、一本多いけどまあいいや!」)を却下し、ジェーンはメイドに予備の毛布を運ばせ、三人は床に寝ることになった。年少の女児一人ならベッドに寝かせてもよいとジェーンは妥協したが、女児自身がアビーの隣で眠りたがったから。

 暖炉に火が入り(暖炉風電気ストーブではなく、薪を燃やす本物の暖炉)、部屋は暖かく快適だ。女中部屋呼ばわりするほどではないにしても、狭く簡素な部屋に暖炉があるというのは少々ちぐはぐな気がしないでもないが。


 少なくともあの男は、物質的な不自由さからわたしたちを精神的に追い詰める意図はなさそう――今のところは。


 高齢(実年齢は本人にもわからないが、外見上は七十歳前後に見える)のせいもあり、ジェーンは重い疲労感に包まれてベッドに横たわっていたが、東洋の娘がのべつまくなくお喋りを続けるため、なかなか寝付かれなかった。


「なんかさ、みんなとわいわい話していると、色々よみがえってくるんだよね」

 東洋の娘は無邪気に言った。それは、確かにそうだった。しかし


 わたしたちは皆罪人だと、あの男は言った。


 こんな目に遭わされなければならないほどの罪を、各々が犯したのだというのであれば、それは、このままそっとしておいた方がよくはないか、とジェーンは思う。知らない方がよいことなど、この世にはいくらでもあるのだから、例えば、彼女の暮らすヴィレッジの善き住民ミスター・ルイスの場合――

 そこで老女は考えるのをやめた。

 あの男の思う壺だとしか思えなかった。あの男は、人間の弱さや愚かさを嘲笑いたいのだ。"I told you soだから言ったじゃないか." そう言いたくて、仕方がないのだろう。


「ねえ、あいつ、何者なんだろう。やっぱり、あれ? 悪魔とかそういう……」

「悪魔なんて、実在するわけないでしょう」

「じゃあ、神なの? 神様があたしたちに罰を与えてるの?」

「およしなさいよ、そんな不敬な」


 アビーは意外と保守的なのだと、彼女の声に苛立ちを聞き取ったジェーンは思う。わたしよりよほどモダンな人間のようなのに、不思議だこと。

「だって、悪魔が存在しないなら、神だって存在しないのでは。そのどちらでもないなら、は一体なんなの?」

 この東洋の娘は、見た目よりも賢いとジェーンは評する。もっとも、彼女の見た目は、彼女の時代の彼女の国では特に珍しいことではなく、下着が見えそうなほどスカートを短くしているからふしだらな娘、ということにはならないらしい。そんな世界は、老いた彼女としては全く好きになれなかったが。


 自分は無神論者だが、仏教や神道といった多神教的思想をバックグラウンドに育った。仏陀ならこんな残酷な仕打ちを信者にしたりしないと思う。いやまて。そういえば、どうしようもないクズが死んで地獄に堕ちた時に、そのクズがまだ生きている間に一度だけ蜘蛛を殺さず助けてやったことがあるからと、お釈迦様が脱出用に蜘蛛の糸を垂らして助けようとしたけど、クズ男がその糸を上り始めると、他の連中も真似して糸を上り始めて、糸は細いから、今にも切れそうで、クズ男はこれは自分の糸だと怒る。結局、極楽まであと少しというところで糸が切れてしまい、クズ男も含め一同真っ逆さまに地獄に転落する様をお釈迦様が極楽から悲し気に眺めるっていう救いようのないお話があった。生きている間に極悪非道の限りを尽くした男が、たまさか一匹の蜘蛛を殺さないでおいたのは善行でもなんでもないし、ああいう結果になるのは目に見えていただろうに、一体どういう意味があるストーリーなのかいまだに謎だ。やっぱり宗教は性に合わない。ねえところで、仏陀とお釈迦様って同一人物?


 そんなことを一人でしゃべり続ける東洋の娘の声を聞いているうちに、ジェーンの瞼はようやく重くなっていった。しかし


「そういえば、ゴハンのとき、一人欠けてるってジェーンさんが言ったよね。そのひと、どこ行っちゃったんだろう。ねえ、どんな人だったか覚えてる?」

「あんな状況で、冷静にわたしたちの人数を数えていたんですね、ジェーン」


 二人からの問いでこちら側に引き戻されたジェーンは口元に笑みを浮かべた。冷静ではいられなかったから、何かして気を紛らわせようと思ったのだ。しかし、それは口にしないでおいた。彼女たちのことをまだ完全に信じたわけではないから。


「姿までは思い出せないわ。いえ、ぼんやりとは浮かぶのよ。でも、通常、ひとを見る時は、服を着ている状態を想定して、見るじゃない。あんな状況では、あまりじろじろ見るのは憚られたのよ。たとえ、こっそり横目で盗み見るにしても」


 それから、男が被っているマスクの話になった。東洋の娘が「あんなふざけた天狗の面なんて被って一体どういう」と発したのをアビーが聞きとがめたのだ。

「テング?」

「ああー、みなさんは知らないのね。わたしの国では、山にああいう真っ赤な顔で鼻がびよーんて伸びた奇人、あれ、ヒトではないのかな、とにかく、ああいう変な顔した男が住んでることになってて、そいつの名前が『天狗』っていうの。そいつのお面、祭りの露店で売ってたりするよ。あいつが被ってた木彫りの上等なのじゃなくて、ぺらぺらのプラスチックの安物だけど」

「ちょっと待って、あいつは真っ赤なお面なんて、被ってなかったわよ」

「えっ?」

「でも、衣装は赤かったわね。でも、面は白よ。だって、骸骨のマスクを頭からすっぽり被っていたんだもの」とアビー。

「おやまあ」

 ジェーンによれば、最初に彼女たちが男に遭遇したとき、男が被っていたのは黒っぽいペストマスクだった。大きな嘴が彼女の鼻先に突き付けられたことを老女は鮮明に思い出すことができた。形状的に、鼻が大きく伸びているという東洋の面と似ていなくもないが、この二つを見間違えるはずがない。プリンセスは寝入っているため聞き出せなかったが、どうやら、男の姿は、見る者によって異なった姿に見えるらしい。


「一体どういうこと? なんの意味があるの?」

 東洋の娘は憤慨していた。確かに、理不尽な悪ふざけのように思える。

「あの男のすることには、意味なんかないのかも」

 ジェーンの言葉に、東洋の娘はさらにいきり立つ。

「意味がないって、どういうこと? もう既に二人死んで――」東洋の娘は唐突に言葉を切った。この部屋に押しかけて来て以来、一度もカーテンを開けていないことを思い出したのだ。

 東洋の娘が黙ったので、沈黙が訪れた。

 暗い天井を見つめていたジェーンは、これでようやく眠れると、瞼を閉じた。疲労の蓄積が限界近くまで達していたらしく、すぐに眠りに引き込まれそうになるが、

「明日はどうしようか」という声に、

「館の中を探索してみましょう」とだけどうにか答えた。

 そして、それ以降は何もわからなくなった。

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