DAY 2
第11話 二日目
翌朝
いや、朝なのか昼なのか、それとも明けない夜が続いているのか不明だ。ぶ厚いカーテンは相変わらず閉めたままで、誰もそれを開けようとしない。
メイドたちがわらわらとベッドトレイに載せた朝食を人数分運んできた。カーテンを開けずに部屋を出ていくメイドの背中に、アビーは「彼女たち、こちらの考えていることがわかるのかしら」と呟いた。
「そうかもしれないわね」
起き抜けのプリンセスは機嫌が悪く、アビーに世話を焼かれても返事もせずただもくもくとオムレツやベーコン、茹でた野菜を平らげている。
「探検かあ、わくわくするね~」
東洋の娘が床に足を投げ出した腿の上にトレイをのせ、果物を齧りながら言う。
昨晩、大人たちは、眠りに落ちる前、翌日は屋敷内を探索することに決めたのだった。
「探検? お外に出るの?」プリンセスが顔を輝かせる。
「あなたは、ここに残っていた方がいいわ」アビーが少し間を置いてから、言った。「なにがあるかわからない。あなたは、ここにジェーンさんと残っていなさい」
上機嫌だった少女の顔は、たちまちくしゃくしゃになって、甲高い音を発しながら泣き出した。
「ここにいたら、安全とも限らないのよね」というジェーンの言葉で、少女もアビーと東洋の娘に同行することが許された。ただし「言うことをよく聞き、いい子にしている」という条件で。
そんな約束を守れる子供が、はたしているだろうか。
ジェーンはそう考えたものの、もし何かあった場合、老いた自分といるよりも若く元気な二人と一緒にいる方が幼い少女のためだと思い直し、黙っていた。
何かとは、なにか
獰猛な獣が降って湧いたように現れるとか?
ここでなら、何があってもおかしくはない。例えば、この部屋で息を潜めていたとしても、突然体が自然発火して、誰にも知られず炭と化すかもしれない。
すべては、あの男の気まぐれにかかっているのだろうか。
屋敷の探索に出かける三人を、老女は「気をつけて」と言って送り出した。内心では、三人とも五体満足で帰ってくるかしら、と思いながら。
「あなたも、部屋に鍵をかけておいた方がいいですよ」とアビーはドアを閉めるジェーンに声を潜めて言った。
「なんのために?」
「あの男に対しては無意味でも、人間の女ならばとりあえず締め出しておけますから」
アビーの顔は真剣そのものだった。
「わかったわ」
ドアの内側には、古風な鍵が鍵穴に刺さったままになっていた。三人が出て行ったあと、ジェーンは言われた通り鍵をかけ、抜いた鍵は書き物机に置いた。この先、何が起きるか、わからない。
それから
手持無沙汰だった。編み物でもできたらいいのに。それがどんなに無意味な行為でも、没頭して編み棒を動かしている間だけでも、わずらわしい悩み事から解放されれば、御の字だ。
メイドに頼んでみようか。何食わぬ顔で、毛糸玉と編み棒を持って来てちょうだい、と命令すれば、案外何事もなくそうしてくれそうな気がする。
一つ目の山羊――
ジェーンは身震いした。どうしても必要な時以外は、あのメイドと室内で二人きりになるのは避けたい。
ジェーンは窓に近づき、カーテンに手をかけた。
庭木に死体がぶら下がっているとしても、それは少なくとも百メートルは離れたところにあるのだし、太陽の光を浴びたい。庭の草花を眺めたい。それは突然沸き上がった抗い難い渇望だった。
重たいカーテンを一気に引き開けた。まばゆい光がさんさんと室内に注がれる――そんな期待の通りにはならなかった。
窓のすぐ外に、女の死体がぶら下がっていた。
死体が自ら移動してきたのでなければ、誰かが彼女の部屋の窓のすぐ外のところに、死体を吊るし直したのだ。
いやちがう。大木が移動してきたのだ。
心の大半が麻痺状態に陥っても、彼女の冷静な一部は観察と分析を怠らない。
昨日カーテンを閉めるまでは、窓からの視界は開けていた。部屋は二階にあり、庭を見渡すことができた。大木はなだらかな丘の上に立っていたから、もがき苦しむ女の姿は、小さく見えるだけだった。
しかし今、窓の外はオークの枝に覆われ、ただでさえ陽光が遮られるというのに、さらに悪いことに、枝からぶら下がる女の死体が窓ガラスを隔てたすぐ目の前に迫っている。
女の体は、ジェーンと向き合っていた。
もう、揺れていない。ようやく。
細く繊細な首には似合わない無骨で太いロープが食い込み無残な痣をこしらえ、だらしなく開いた口からは、だらりと舌が垂れ下がっている。眼球は裏返っている。両手はもはやロープと格闘することをやめて体の両側に力なく垂れていたが、指先は皮が破れて血が滲み、爪が何枚か剥がれている。頬や、体のあちこちに無残な傷がぱっくり口を開けているのは、硝子を突き破った際のものだろう。それより浅いひっかき傷は、引きずられるままに薔薇の茂みに突っ込んだからで、ワンピースもところどころ無惨に引き裂かれている。
あの少年めいた可憐な女性だったものの残骸
朝食が喉元にせりあがってくるのを感じたが、最終的に彼女が安らぎを得たのはせめてもの救いだとジェーンは目を伏せた。
メイドに頼めば、彼女の骸を下してくれるだろうか。せめて、庭のどこかに埋葬することを、許してもらえるだろうか。
みしみしと微かな音がした。ロープが軋む音。
俯いたジェーンの視界の端で、女の体が、揺れた。
全身が泡立つ。ああ、風が吹いているのだ、とジェーンは思ったが、それは風ではなかった。眼球がこぼれ落ちそうに見開かれた瞳がぐるりと回転してジェーンを見た。淡いゴールドの髪にマッチした、ブルーの虹彩。
女は、まだ絶命していなかった。
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