第33話 プリンセス・プリンセス

「もうやめて!」


 アビーの悲痛な願いを、聞き入れるような男ではない。


「お前の希望だ。ちゃんと見ろ。見所はこれからだぞ。あのチビが、肉親をどう扱うか見たくないのか」

「肉親?」


 アビーは、ベッドに横たわる娘の苦悶に歪んだ顔を見る。

 その光景は、シアター内の光景と奇妙に重なりあっている。劇場の舞台に、右手首を骨折した娘の部屋が、ホログラムのように浮かんでいるが、彼女のベッドには、シアターの手術台が重なっており、そこに寝ているのは、骨折した娘であり、プリンセスでもある。


「確かに、二人はよく似ているわね」ジェーンがそっと囁く。まるで、寝ている子/娘の邪魔をするのを恐れるかのように。


「じゃあ、あの娘は、プリンセスのお姉さん?」

「いいえ。あの娘のほうが、妹よ」

「ほう。なぜわかった」男の声は明らかに面白がっている。

「膝よ」とジェーン。

「どういうことなんですか」アビーが癇癪を起す。

「いくら若く、幼く見えても、膝にはその人の年齢が現れるものよ」

「膝か。まったく女ってやつは。そんなところまで見てお互いの粗探しをしているのか。恐れ入ったね」

「短いスカートなんてものの流行がなければ、気付かずに済んだことなのだけど」ジェーンは溜息をついた。


 アビーは、ミッシーからもらったというクリームを、まるで後ろ暗いところがあるかのように、隠れて――といってもあの狭苦しい室内でプライバシーの確保は難しいのだが――膝に塗っていたプリンセスの姿を思い出した。あのクリームの成分が何であれ、本人は保湿クリームだと思っていたのだ。


「成長ホルモン分泌不全性低身長症」


 古くは下垂体性小人症と呼ばれていた。名前の通り、脳下垂体からの成長ホルモンの分泌が低下、または欠如することにより小児の成長が妨げられる病である。つまり、年齢を重ねても、外見上は子供のまま成長を止めたように見える。自分の専門分野なのに、なぜ忘れていたのかと訝しがる間もなく、アビーは湧き上がってきた怒りに呑みこまれた。


「では、あの子は、おとななのね」

「年齢的には、そうなのでしょうね。妹の方は、二十歳の手前ぐらいかしら。そうするとプリンセスは、二十代、あるいは年の離れた姉妹で、三十代」

「三十にもなって、まるで幼児みたいに振る舞っていたというのですか、あの娘は」

「本人がどこまで自覚していたのか、わからないけど。妹が幼い時は、本当にそっくりだったんでしょうね。双子の姉妹みたいに見えた時期もあったはず。でも妹はすぐに姉の身長を追い抜き、どんどん成長していく。それでももちろん、二人が姉妹であることは一目瞭然ね。だから、妹の顔を見た時に、何か思い出したのかもしれないわね。それとも、記憶はないまま、憎悪の感情だけが蘇ったのかも」

「憎悪?」

「彼女は、プリンセスは永遠にあの幼い体の中に閉じ込められている。でも同じ顔をした妹は、成長し、大人の女になって、人並みかそれ以上の喜びを余すことなく手に入れることができる。それを横で見ているのは、さぞ辛かったでしょうね」

「辛かった? それは、人を、自分の妹を殺していい理由にはなりません」

「それは、そうだけど。でも、こんな環境に陥らなかったら、あの子だって」


「あいつは、妹の恋人を寝取ったんだ」と男の声。


「寝取ったですって。あの体、どう見ても十歳にはなっていないような体でどうや」アビーは途中で言葉を切った。

「妹は美しく成長を続けた。高校じゃプロム・クイーンに選ばれるほどにな。だが、永遠の子供である姉も、一部のマニアには人気だった」


 そんなケースも、もちろんアビーは知っていた。小児性愛者変態糞野郎ども。身体のみならず心も破壊されて、被害者の子供が病院に運び込まれたならまだマシなほうで、多くは明るみに出ることがない。


「見た目はゴージャスな年上の彼氏。まあ、高校生だった妹がのぼせあがるのも無理はない。だが、三十過ぎて、いかした車を所有する成人男性のくせに、高校生の尻を追いかける、なにかおかしいと思うべきだよな」

「残念ながら、その種のクソ野郎なら、この世に掃いて捨てるほどいるのよ」アビーの声は冷たく厳しい。

「いい歳をした男の方で、未成年と性交したがるなんて異常だって、少なくとも法律違反の犯罪行為だってことを理解して慎むべきなのよ。そうすれば、この世は格段に美しくなる」

「ああだが、男は妹が高校を卒業するまで待ったんだ。用意周到な奴だったのでね。妹を愛していなかったわけではないが、本当の狙いは姉の方だった。なにしろ、レーコの国と違って、子供に手を出すような大人には厳罰を与える健全さが、プリンセスの国にはまだあった。刑務所に入れられた小児性愛者は、忌まわしい汚物のように虐待される。そこに、完全なる無垢な少女、というわけではないが、少なくとも見た目は無垢な少女に見えて、成人年齢に達しているという、実に都合のいい女がいることを知る。まあ、ラブドールよりは優れた代用品だと思ったんだろうな」


「もうやめて!」アビーが金切声をあげた。


 手術台/ベッドの上では、プリンセス/プリンセスの妹が衰弱して横たわっていた。約束した食料は届けられず、二晩放置された。骨折の痛みのせいで、施錠された部屋から抜け出そうという気力も起きず、ひっそりと衰えた妹の元にプリンセスが舞い戻ったのは、三日目のこと。彼女は後ろ手に、食事の際にくすねたテーブルナイフを隠し持っている。


「ええ、わかった。この子は、罪もない妹に嫉妬していた。問題なく発育していく妹の肉体や、それに群がる男達にも。だけど、こんな特殊な環境にさえ陥らなければ、まさか実の妹を手にかけるなんてことは、しなかったはずよ。もう許してあげて。『大人の体になってから死にたい』、確かにそう言ったけど、よりによって妹の肉体の中に閉じ込めるなんて、よくもそんな」


 妹の肉体の中で、プリンセスは成す術もなく、醜く顔を歪め薄ら笑いを浮かべた幼児のような女――自分だ――が、部屋の隅でグレーのワンピースを脱いで素っ裸になるところを、ただ見ているしかない。


 ああ、こんなに醜い姿をしていたのだ。


 裸になるといっそう腕の細さが際立つ彼女の小さな手にはいささか大きすぎるナイフ。それを握りしめて近づいてくるのを見守りながら、そんなことを客観的に考える余裕があることが、彼女自身信じられない思いだ。


「すごくよかった、って言ったけど、あれは嘘。いいわけないじゃない、この体で、身長百八十センチの成人男性とだなんて。体が引き裂かれたのよ、文字通りの意味で。わけないじゃない。ばかねえ、あんたは。あんな男を殺そうとしてなんになるのよ。本当にバカな子」怒りに歪んだ、醜い三十女の顔と、体。外見はあくまでも少女のままだが、中身は実年齢よりも老けているように感じていた。その怒り。悲しみ。憤り。そんなものをすべて、身体はほぼ大人の女のようでも、中身は傷つきやすいティーンエイジャーの妹にぶつける身勝手な姉。これが、自分。そしてその自分は今、こんなことを考えている。


 小さな妹ベイビーシスター。大好きだった妹。両親の愛を独り占めできなくなっても、わたしは平気だった。わたしも妹を愛していたから。でも妹がわたしの背丈を追い越してから、何もかもがおかしくなった。パパとママは急によそよそしい態度をとるようになり、わたしとは目を合わせようとしない。そして、妹までもが。わたしがなれたかもしれない姿で、わたしを見下ろすあの目。


 ナイフの刃先――といっても、せいぜい皿に盛られたステーキを切り分ける用途に用いるものだから、先端は丸みを帯びた形状――が、左の眼窩を貫く。体が小さいので、両手で握りしめて、思い切り体重をかけて奥まで押し込み、さらにぐりぐりと、脳を破壊する目的でこねくり回している。陰険で執拗、だが、潰されていない方の眼球も、部屋の電気が消えたみたいに暗闇を見つめるだけになった。それでも、ナイフが引き抜かれる際に頭が少し持ち上がったことや、顔の表面があまり鋭利ではない刃物で切り刻まれる衝撃が感じられる。


「妹の顔を見られたら、自分との関係性が疑われると思ったのね。だから、顔をナイフで傷つけただけでは安心できず、せん妄状態にある老女をそそのかして顔を」ジェーンが静かに言う。

「やめてください!」

「この行動は、冷静な大人のものだわ。それでも、あなたの擁護が必要かしら」

「ジェーン、この世界は、白と黒の単純な世界ではない」


でしゃばりスポイラーめ」

 ごう、と音を立てて風が吹き抜けた。思わず固く瞑った瞼をこじ開けると、そこは手術室で、手術台の上には、左目を抉られ、顔を獣に食い荒らされたような無惨な死体が横たわっている。その姿は、実際には大人なのだとわかっていても、あまりにも小さく、無力に見えた。皮膚は全体的にくすんだ色合いになり、既に死後数日は経過していることを窺わせる悪臭を放っていた。

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