第34話 そのころ客席では

 話は、少し巻き戻る。


 アビーに続いてジェーンまでもが舞台に下りていくのを赤毛は黙って見送った。これだけ大勢が殺し、殺されしているなかで、正体不明(彼女たちは全員記憶喪失なのではないか?)の死体のことなんて、どうでもいいことのように思われた。彼女の元の暮らしでは、下層階級の人々の娯楽といえば安酒のジンを煽ることぐらいで、アルコールの毒は子供にも及び、あのぐらいの年齢(実年齢ではなく見た目)の子供がはやくも酒浸りで、性的に堕落(お上品な人々の言い草だ)しているようなことも珍しくなかった。女子供は男の付属物、文字通りの「物品」として扱われた。そして、彼女の時代では、人は、大人も子供も、簡単に死ぬ。だから、一体、何を大騒ぎしているのだろう、と赤毛は半ば呆れている。


 これだから、お上品な方々は


 ステージ上での出来事に集中できない赤毛の女が、円形のステージを挟んだ正面の客席に注意を向けると、そこに、短い期間ではあったが、彼女と愛人関係にあった若い女の姿が見えた。


 愛人だと


 愛などなかった。あの女が、身の安全を保障する代わりに体を差し出す(あたかも、赤毛自身がそれを望んでいたかのように)などと言うから、鬱憤と欲望を処理するために承諾しただけ。

 自分も、あの娘も所詮はあの男に無残な最期を強いられのだ。ならば、暴徒に襲われて死んでいた方が、いくらかマシだったかもしれないと思わなくもない。だが、あんなふざけた武器(テーブルナイフにフォーク、それに枕ときた!)にへっぴり腰では、やられる方が難しい。

 とどのつまりは、生きていたいと足掻くのが人間というもののさがなのかもしれない。


 アンディ、とはあの体の小さい女がつけた名前だ。気が弱そうで、常におどおどしているせいで、相手の嗜虐性を呼び覚ます女だ。そのくせ、死体や瀕死の者を見ると発情して大胆になる。あの女がここに来る前に何をしでかしたのか、恐らくそれは、病的で猟奇的なホラーストーリーに違いない。


 では、この自分は一体何者なのか。


 銀行強盗を派手にやらかして警察連中の鼻を明かした大悪党だったらいいと願う。だが直感的に、それは違うと感じる。案外、空腹のあまり盗みに入った家の一人暮らしの老いぼれた爺さんを殺してしまったとか、そんな世知辛くしょぼくれた罪人かもしれない。それでも悪党には違いないが、こんな報いを受けるほどの悪行ではない。普通に裁きを受けて縛り首ならば、苦痛はそう長く続かないはずだ。それでも、ロンドンの物見高い聴衆に罵声を浴びせられて無様な死に様を晒すことになるのだが、よりはマシ。


 そんなことを考えながら、赤毛の視線は、対岸にいるアンディに固定されていた。ホログラムのような「場面シーン」を透かして、若い女の姿は少し揺らいで見える。顔色が土気色に見えるのも、ほんのり青味がかった色付けがされているせい。


 だとしても、なぜあんなに苦しそうに顔を歪めているのか。


 じっと眺めていると、彼女の左腕――かすり傷の上にシーツを破った即席包帯を巻いてある――が奇妙に膨らんでいることに気付いた。それに伴い、アンディの顔がさらに苦痛に歪んでいく。

 ブチブチと音を立てて包帯が千切れて落ちた。コットンの袖も大きく裂けている。アンディのむっちりと肉づきのよい腕は、左腕だけ二倍の太さに膨張していた。小さかった傷口がぱっくりと口を開けて広がり、皮膚がめくれあがっている。その結果傷口はいっそう広がり、嫌な色をした膿汁が太くなった腕を伝い滴り落ちる。さらに傷口が広がり、骨が露出し始める。腐臭がこちら側まで漂ってくる。


 先ほどからアンディが苦痛に耐えきれず悲鳴をあげているのだが、その声は不思議と赤毛の元へは届かない。まるで、彼女とアンディの間に横たわる舞台空間が音の伝達を阻んでいるかのように。


 腐った肉が溶け、さらに骨が露出し、丸太のように膨張していた左腕がすっかり白骨と化しても肉の溶解は止まらない。肉の腐食はさらに進行する。まず膨張、そして傷が広がり、腐った肉が溶けて、骨が露出する。左肩からさらに胸、首へと、ゆっくりだが確実に広がっていく。


 いつの間にかステージ上のショウは終わっていた。薄い幕が張ったように揺らいでいた視界がクリアーになっている。音も戻ってきた。アンディの絶叫が劇場中に響き渡り、顔を失った小さな遺体を前に呆然と立ち尽くしていたジェーンとアビーも客席で起きている異変に気が付いた。

 アビーが口と(ついでに鼻も)押さえて悲鳴をあげた。

 アンディの体はすでに半分以上骨になっている。だが、まだ叫んでいる。膨れあがった皮膚が腐り落ちる過程で内臓はこぼれ落ち、しかしそれも次第に腐って溶け、それでもまだ彼女は叫んでいる。舌が腐り落ちてようやく静かになったが、みしみしと骨を軋ませながら、苦痛に身をくねらしている。


 ステージ上にいるゴーグルの男と赤毛の視線がぶつかった。男は、大きく口の端を持ちあげて、笑った。呪縛を振りほどくように赤毛は怒りの咆哮をあげると、渾身の力で銃を構えた。


「余計なことをするな。せっかく抗生物質がない時代の病院壊疽という見世物をご鑑賞いただいている最中なんだぞ」


 男の言葉に怯みもせず、赤毛は既に片目を失い顔の半分ほどが骨と化した頭部に狙いを定めて引き金を引いた。

 爆音、衝撃、そして視界が真っ赤になった。

 銃が暴発したのだとわかったのは、銃身を支えていたはずの右手が千切れ飛んで血が噴き出しており、顔の筋肉が一切動かせなくなっていたからだ。


「だから、よせといっただろう」


 だが赤毛にその声は届かず、背後の座席に倒れて動かなくなった。


「なんてこと」老女が悲痛な声を絞り出した。

「さあて、残るはお前たちだけか」

 男はジェーンとアビーの顔を交互に眺めて言った。

「さあ、死に方を選べ。じゃないと、今このシアター内は侵食性の細菌がうようよしているから、かすり傷一つであの女と同じ目に遭うことになるぞ」


 からん、と音がして、ようやく白骨化が完了したアンディの体が崩れ落ちた。関節の部分でバラバラになった骨が飛び散り、頭蓋骨が客席の階段を転げ落ちた。


「わたしは」アビーが悪夢にうなされている夢遊病患者のような顔で呟いた。

「アビー、やめなさい」ジェーンが静かに、しかし強い声で言う。

「お前が先でもいいんだぞ、ジェーン」

 男の視線をジェーンは無言で受け止めた。アビーは二人の言葉に耳を貸していなかった。

「子供を救うのが仕事だったのよ。難病で余命数ヶ月の子にだって、全力を尽くしてきた」

 アビーは手術台の上のプリンセスの亡骸に目線を落とした。

「だが、救えないものは救えない。今まで何人の子供に死なれた? 無知蒙昧な人間がちんたらしている間に、救えなかった子供は何人だ?」

「五十人を超えてからは、数えるのをやめた」

「そんじょそこらの連続殺人鬼も真っ青な数字だな」

「アビー、やめなさい」ジェーンが繰り返した。

「うるさいぞ、ババア。やっぱりお前を先に始末してやろうか」

「アビー聞いてちょうだい。悪魔には、人間を強制的に従わせることはできないものなのよ。だから、あの男の言葉に耳を傾けないで」

「なにが言いたいいんですか、ジェーン」

「こちらが望まない限り、あの男には手出しができないってこと。だから、あの手この手でこ

「なぜ、そんなこと」

「なぜって、悪魔とはそういうものだからよ」


 背後から伸びた手がジェーンの両肩を掴んだ。その鋼のような指が、コットンの生地の上からジェーンの干からびた皮膚に食い込み骨を軋ませたが、老女は声をあげるのを堪えた。


「お前には本当にがっかりだ。そこまでかわいげのない態度をとられたら、こちらも切り札を出さないわけにはいかないな」

 男はジェーンの両肩に爪をくい込ませながらアビーに顔を向けた。


「おれにだって情けはある。だから、これは黙っているつもりだったんだが、恨むならジェーンを恨め」


 男の言葉に、アビーの青ざめた顔が紙のように白くなり、最後の一滴まで血が失われたようだった。


「お前は、妊娠している」と男は言った。

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