第35話 ひとを呪わば

「うそよ、そんな」

「いったいこれで何度目だ。五回目、それとも六度目? これも医者の不養生ってやつか?」

 アビーはよろけた体を支えようと手術台に手をついたが、生温かく毛むくじゃらの何かに触れて、慌てて手を引っ込めた。

 いつのまに侵入してきたのか、三体の半人半獣の仔が、腐臭を発する小さな遺体に群がっていた。彼らの立てるぺちゃくちゃという嫌な音に身震いして、アビーは手術台の脚を蹴りつけ、平手で大きな音を立てて小さな獣たちを脅し、追い払った。彼らはめいめい好きな方向に散り、観客席の陰に姿を隠した。


「一体何なのよ、あれは!」

 顔のみならず体のあちこちまで食い散らかされたプリンセスの死体を痛まし気に見やり、アビーは男を睨みつける。彼女の目に映る男は、初日に見たように、髑髏の面を被っている。だがその髑髏は、よく見れば、どう見ても本物のしゃれこうべだった。男の声は、開閉する剥き出しの上下の歯の間から聞こえてくるが、その中身は空洞だ。


「あれは、おれの種だ。言っておくが、向こうが望んだんだ。お前たちの優柔不断さに辟易していたところだし、暇つぶしに欲求を満たしてやった」

「レーコのお相手も、あなただったのね。そうじゃないかと思ったわ」ジェーンが呟く。

 アビーははっと息を呑み、我知らず下腹に手を添えながら、なおも男を睨み続ける。


「そんな目で見るな。お前のはおれじゃない。お前はここに来る前に既に孕んでいた。身に覚えがないなんて言わせない」


 身に覚え?


 

 アビーは胸のむかつきを覚えた。怒りのせいなのかつわりが始まったのか、わからない。


「育てる気もないのに、ころころとまあ」 


 初めから捨てる気で産んだわけではない。


 二十代の初め、まだ在学中に最初の子を身籠った。ハンサムな三つ年上の彼は、妊娠を告げると即彼女に結婚を申し込んだ。彼は既に新米弁護士として働いていた。彼の誠実さに、一時は中絶も選択肢として真剣に考えた彼女も、産み育てる決意を固めた。君に似た子ならかわいいだろう。子供はできるだけたくさんほしい、と笑って言った。野球チームだとかフットボールチームだとか。まさかそれが本心だとは、その時は思わなかった。

 医大生だった彼女は、子育てをしながら学業を続けた。夫は不満そうだったが、それだけは譲れなかった。睡眠時間を削り、どうにか新米医師としてのキャリアをスタートさせることができた。しかし


 夫は「宗教上の理由で」避妊を拒否した。彼女は、それからほぼ毎年のように妊娠出産を繰り返した。小児科医の仕事はやめなかった。彼女は自分の仕事を、キャリアを諦める気はなかった。

 五人目の子が五歳になった時、彼女は家を出た。その後、二度と戻らなかった。


「いくら夫に顔の形が変わるぐらい殴られたからって、子供を全員置いて行くとはねえ。暴力亭主に我が子を預けておくのは不安じゃなかったのか」


 密かに低用量ピルを服用していた、それが夫が激高した原因だった。五人目の子が生まれて以降、妻が子を宿さなくなったことを常々不審に思っていたのだ。

「妊娠やお産がどれだけ女の身体に負担をかけると思ってるの」いくら訴えても、無駄だった。

「お前は我が子よりキャリアの方が大事なのか」子煩悩ではあるが、自分は妊娠も出産もする必要がない男が、そんなことを言う。ピルを飲み始めてから、家に火をつけて全て燃やすという妄想から解放されることができた。それでも、気が付けば自分の子供より、患者である難病の子供たちのほうがよほどかわいいことに改めて気付く。


 なぜなら、彼等の命は、とても短いから。


 医師として全力を尽くしても、助からない。それに不思議な安らぎを見出す自分がいた。あの愚鈍な――頭が悪いわけではないのに妻の気持ちには頓着しない――夫がキッチンの戸棚に隠されたピルを発見するように仕向けたのは、彼女自分だ。


「ふふっ」思わず笑いが漏れた。

「しっかりなさい、アビー」老女の緊迫した声とともに、頬に痛みが走った。

「ジェーン」

「子供を捨てる選択をした女性は、あなた一人じゃないのよ。とても、たくさんいる。女が我が子を育てない道を選ぶと、みんなが非難するけど、常に女の方が、女性の側だけが悪いなんてことが、あるわけないでしょう」


「捨てられた子供たちはそうは思ってなかったようだがなあ。ま、見捨てられたお前の夫が色々吹き込んだせいもあるんだが。五人とも男の子だっけ? 全員が、ものの見事に不幸な人生を送った。長男はドラッグ、次男は詐欺で捕まり、三男は女房をぶちのめしてお縄、四男は鬱病、そして末っ子は、継母の子を階段から突き落として家出、末っ子が十三歳の時だ。地元のギャングに拾われて、まああんまり長生きできそうにないな」


 くつくつとアビーは打たれた頬を押さえながら忍び笑いを漏らした。


「そして、おめでとう、六人目だ。妊娠は十五年振りだっけ?」

「あのピル」

「うん?」

「すごく忙しくて、月末になるまで一錠余ってることに気付かなかったのよ。もうずっと相手もいなかったし、ただ惰性で飲んでただけだから。生理が軽くなるし、わたしはもう万が一にも妊娠なんてしたくなかった。それなのに」


 若いインターン、一夜の過ち。避妊具を持っていないならしないと強固に拒絶したのに、男は力づくでも目的を達する気だったし、酒のせいか久々に若い男にくどかれたからか、つい気が緩んで、ついに根負けした。どの道、あの若い男は諦めなかっただろう。「先生のお歳なら、妊娠する可能性は極めて低いですよ」とまで言った。その結果がこれ。


「あの男、殺してやりたい」


 責任をとるつもりなんてないくせに。


「うんざりだわ、もう。ええ、わたしは馬鹿なことをした。それは認める。だけど、相手の男たちはどうなの。どうしていつも、ひどい目に遭うのは女なの。あいつらも痛い目に遭えばいいのよ」

「お前が望むなら、あいつらに悲劇的結末を迎えさせてやろう。おれは愚かな人間を誘惑するのが得意なんだ。それは信じてもらっていい」

「ええ、お願い」アビーは言った。

「アビー」

「黙ってて、ジェーン。あなたなんかには、わからない」


 老女は悲しそうな顔をした。


「外道どもの始末は任せろ。それで、お前はどうする」男は舌なめずりをしながら猫なで声を出す。しゃれこうべの頭部には、舌なんかないはずなのに。

「そうだなあ、赤子に免じて、お前は許してやってもいい。元の世界に戻してやろう。そうして、親子ともども、今度こそ幸せに暮らすといい。お前はあと、三人は子を産めるから喜べ」


「いやよ!」アビーが絶叫した。


「誰が、二度と子供なんか産むもんですか!」

 目が吊り上がっていた。

 アビーは汚れたメスを掴むと、下腹部――子宮がどの位置にあるか、彼女は完全に把握していた――に突き立てた。一回、二回、繰り返し、何度も。腹腔圧で腸が飛び出したが、気にも留めず。


「死んでやる。死ねばいいんでしょう。ほら、これで満足?」

 金切声をあげながら、アビーは腹に刺したメスを掴んだ両手に力を込め、唸り声をあげながら真横に切り裂いた。大きく開いた傷口の中には、こぶし大の卵がびっしり詰まっていた。それはぬめぬめとした魚の卵を連想させた。アビーが怒りの雄叫びをあげる。


「みんな死ねばいい。誰が産んでやるものか。死ね死ね死ね死ねえええ!」


 アビーはメスで卵をめった刺しにし、血反吐を吐いて床に突っ伏した。

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