第36話 And Then There Were
血だまりの中に突っ伏したアビーの体の痙攣が収まると、それを静かに見守っていた男はゴーグルを外した。
一つ目ではなかったが、その瞳は瞳孔が横に長く伸び、虹彩が金色だった。レザーエプロンもゴム長靴もいつの間にかなくなり、男の上半身は裸で、下半身は毛皮に覆われ、頑丈そうな蹄が二メートル近い長身を支えている。
「ジェーン」男は言う。
「どうやったら、お前を絶望させられる」
「絶望?」
「この世には神などいないと、天に向かって呪いの言葉を吐かせるためには、どうしたらいい」
「もうすでにそう思っていないとなぜわかるの。見てごらんなさい」
ジェーンは円形のステージとそれを囲む客席をぐるりと見渡した。
客席にはどろどろの汁を残して白骨と化したアンディの残骸が散らばり、その反対側には銃の暴発でドレスの前を真っ赤に染めた赤毛の女が天を仰いだまま微動だにせず座っている。
ステージでは、手術台に幼児にしか見えない女の骸が腐りかけて横たわっており、ハラキリスタイルで自決を遂げた女の死体の周りには、卵の殻が散らばっている。いつの間にか客席から這い出してきた三体の小さな獣が、じりじりとご馳走に向かって距離を詰めている。今のところ、どちらの遺体を狙っているのか、定かではない。
「では、信仰を捨てるか?」男は前かがみになり、ジェーンの顔を覗き込んだ。
「そもそも、そんなものを持っていたのかどうかも、わたしにはわからない」ジェーンは天窓から降り注ぐ太陽の光に眼を細めた。彼女の薄青い瞳には強烈すぎて眩暈を起こしそうだったが、胸の前で握りしめている手に力を込めて堪えた。
まだ、もうすこし。
「お前は、おれには直接お前を傷つけることができないと思っているのか」
「ええ」
「なぜそう思う」
「さあ。あなたが、かつてわたしが知っていた誰かに似ているからかしら」
「覚えてないんだろう」
「ええ。でもときどき甦るのよ。名前は忘れたけど、村の若い男性よ。会計士だったわ。とても礼儀正しくて、地域の高齢女性の世話に熱心でね。ボランティアで孤独な老人の話し相手をするの。みんな、とても喜んで彼に感謝の気持ちを贈るの。それは、夫の形見の銀のシガレットケースだとか、そこそこ高価な品から、全財産を彼に遺す身寄りのない老人まで様々だったけど、彼はもちろん、一言も自分から見返りを求めたりしなかった。それが、彼の手なんだけど」
「そんなに、自分を賢く見せたいか、ジェーン」
「歳を取ると、噂話ぐらいしか楽しみがなくなるのよ。そして、人間の行動っていうのは、そんなに独創的にはならないものでしょう」
男は体を起こして、一歩後ろに下がると、老女の姿をまじまじと眺めた。
「お前は、元の世界に返してやろうか。関節痛で体の自由が利かなくなり、好きな庭仕事も教会の慈善活動もできなくなる。自慢の家は甥っ子の手に渡り、お前は老人ホームに送られる。自慢の脳も終いには呆けてしまう。そんな暮らしは、地獄よりもひどいだろう?」
「地獄って、ここよりひどいところかしら」
「素直にお願いしてみろよ」
ジェーンは頭を片側に倒し、男の顔を無言で見つめた。
「これだけのことが起きた後には、無理ね」
「おれのことは信用できないというのか」
ジェーンは悲しそうな顔で男を見返すばかり。
「気に入らない。愚かな人間というのは、まだいくらか可愛げがあるもんだが、お前のように小賢しい人間が一番嫌われる」
「ただ歳をとった女だってだけで嫌われるのよ。それは、どうしようもないわね」
「調子に乗るな」
男の怒声で窓がびりびりと震えた。
「取引に応じない人間には、おれは手出しができない。だが、おれの子供たちは違う」三体の小さな獣が、男の背後に集まっていた。一体は、ジェーンから奪ったピンクのふわふわした編み物を頭に被ったままだ。
「こいつらは腹ペコなんだ。半分熊だからな。体をでかくするには、お前のような骨ばったババアでも選り好みしないで食べなければならない。なあ、お前たち」
ギザギザの歯を剥き出し、よだれを垂らした三体の仔が、じりじりとジェーンににじり寄ってくる。
「やっぱり、枕で窒息していたほうがよかったかしらねえ」ジェーンは溜息をついた。
「この、恩知らず、が」
床をよちよちと這って近寄ってくる獣たちに気を取られていたジェーンは、はっと顔をあげると、舌をだらしなく垂らした男の背後から伸びた腕、左手が握りしめるメスが、男の首を右から左へ(ジェーン目線では左から右へ)かき切っていた。
ごぼごぼと音を立てて、男の喉から口から血がほとばしり出た。
「お、ま、ええええええ」
血反吐混じりに男は声を振り絞り、ゆっくりと体を捻り背後を見た。そこには、左側の顔面が吹き飛び、右の手首から先を失った赤毛の女がよろめきながらどうにか踏みとどまっていた。赤毛は男の膝裏に蹴りを入れ、床に膝をついたところへ、さらにメスで切り付けようとしたが、バランスを失って後方に数歩下がって尻もちをついた。三体の獣が唸り声をあげながら赤毛に向かっていく。
ジェーンはそっと移動して、男の背後に立った。小柄な彼女は膝立ちの男とほぼ同じ背丈になっていた。男の喉を切り裂いた傷は深く、頭部がかっくりと後ろにのけぞった。その頭を、背後に立っていたジェーンはそっと胸に抱いた。裏返って白目になりかけた男の眼球がジェーンの顔を見上げた。
「やめ、ろ。後悔、する、ぞ」
「ええ、そうね」
ジェーンは、ずっとショールの下に隠して握りしめていた編棒を、男の右の鼻腔から突き入れた。暴れる頭部――しかし切り裂かれた喉の傷が深くぐらぐらしているのだが――を片方の腕でロックし、更に奥へと押し込む。編棒はすっかり鼻腔の中に押し込まれ、先端は右の眼球の底をかすめ、頭蓋底を突き破って脳に達した。
ジェーンが大きく息を吐いて男の首に回していた腕をほどくと、男は前のめりに倒れ、激しく痙攣した。
小さい獣たちはしばらく赤毛の女とジェーン、そして男を見比べていたが、ピンク色の帽子をかぶった仔にジェーンが微笑みかけると、彼等は一斉に父親に群がって肉を喰らい始めた。
「終わったのかい」左目を完全に失い、右目も傷ついているため視力が著しく衰えた赤毛が訪ねた。
「多分ね」ジェーンは肩で息をしながらできるだけ急いで赤毛の元に向かい、ぐらぐらしている彼女の体を支えた。
「あたしに構うな、ばあさん。あんたみたいな老いぼれに、運べないだろ」
「ええ、そうね。だから自分の足でしっかり歩いてちょうだい。それから、今度婆さんよばわりしたら、あなたにも編棒をお見舞いするわよ」
ジェーンは赤毛の体の重みにあちこちの関節が軋むのを堪えながら宣言した。
「あんた、何者だい」
赤毛の呟きに、老女は答えなかった。
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