第37話 ひとでなしの恋
一歩踏み出すたびに千切れた右手と顔面、それから銃の破片が刺さった胸部に鋭い痛みが走り、呼吸もままならない状態の赤毛の女の歩みは、ジェーンに体を支えてもらっていても遅かった。
大柄な女の体重を受け止める小柄な老女の体は関節炎のために節々が悲鳴をあげ軋んでいたが、一刻も早くここから立ち去らなければならないと焦る気持ちに突き動かされていた。
「どうやって脱出するんだよ」
「それがねえ」
「まさか、ノープラン」
「そういう言い方もあるわね」
床が、壁が、みしみしと不吉な音を立てた。二人はようやくシアターの入口にたどり着いたところだった。
「もういいから、お前だけで行けっつってんだよ、このクソババア」
「一人でも、この体では逃げられないかもしれないもの」
「人の意見に耳を貸さない、だから嫌われるんだよ」
ジェーンは瀕死の女の悪態を無視した。ようやく廊下に出たとき、足元の揺れや壁の軋みが大きくなっていた。階段はすぐそこだったが、途中に行き倒れ突っ伏している女の姿であった。顔は見えずとも、黒髪のショートボブに包帯を巻きつけた姿は、一人しかいない。
「レーコ。目が覚めたの?」
ジェーンの呼びかけに、東洋の娘はゆっくりと顔をあげた。
若く張りがあった肌はすっかり干からびて、まるで乾燥させた木の皮のようだった。グレーのワンピースに包まれている体は、ほとんど質量を感じさせないほどやせ細り、ミイラの包帯を解いたら出てくるのはこんなだろうという姿。以前は細く切れ長だった眼だけはやたら大きく、飛び出して見える。
かわいそうに。
ジェーンは内心の声を表に出すことなく「ここから逃げるわよ。あなたも一緒に来なさい」と言った。
「あの人は?」干からびてひび割れた唇が問う。
「あの劇場の中よ。でももう」
「わたしは、あの人の元へ行く。気にしないで二人だけで行って」
「レーコ」
「ねえ、わたし、ずっと考えてたんだ」レーコは起き上がろうともがいたが結局諦め、肘を使って匍匐前進し始めた。
「ここよりも、元の世界の方が酷いってことはないのかな。人間の心なんか持たない悪党だったら平気かもしれないけど、自分のしでかしたことを日々悔いて、時間が巻き戻ったらどんなにいいかって、そんなことばかり考えてるとしたら」
「それでも、自分のしたことならば、向き合う以外しょうがないでしょうね。それが、どんなにつらいことでも」
「わたしは、そんなに強くないの」
「あの男は、あなたの他にも」
「わかってる。劇場で起きていたことは、わたしにも見えていたし、聞こえていたから。あいつがどういう男かなんて、最初からわかってた」
そういう台詞を口にする若い娘が本当にわかっていた試しがあったかしら。
しかし、ジェーンはその思いも胸の内に仕舞っておいた。
「後悔するぞ」と男は言った。それはただの脅しだったかもしれないし、真実かもしれない。考えるだけ、無駄というものだ。あちらとこちら、どちらがマシかなんて、彼女にだってわかりはしないのだから。
それに、恋に目が眩んだ人間、とくに若者には何を言っても無駄だということは、そのような経験のない彼女にもわかっていた。
「それじゃあね。二人は助かると思うよ。あたし、夢で見たんだ」
シアターの扉に向かって這って行くレーコの姿をしばらく見送っていたジェーンは、床にドンと響いた突き上げるような揺れで我に返った。
「急がないと」
赤毛の女から返ってきたのは、唸り声だった。出血がひどいため、意識を失いかけているのかもしれなかった。大柄な女の体の重みが増した気がして、ジェーンは思わず呟いた。
「こんなことなら、いっそのこと枕で……」
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