188X

第38話 フロム・ヘル

 ぐわらぐわらと轟音を立てて崩れ落ちる天井、壁、降り注ぐ硝子の破片――

 目覚めると同時に溶けていく夢の記憶のように、それは素早く彼女の手をすり抜けて、消えた。


「ジェーン」


 名前を呼ばれて、彼女はゆっくりと振り向いた。

 目の前に立っているのは、ピンク色の頬をした二十代前半の女。十一月の朝にはいっそう寒々しく見える薄いブルーの瞳、金色の髪はひっつめ髪にし、地味な服装。最近、婚約が破断になったという噂で、それというのも


「ジェーン。こんなところで会うとは奇遇だね。親父さんの具合はどうだい」

「かなり落ち着いてるわ。気にしてくださって、ありがとう、ジェーン」


 とりたてて美人というわけではないが、誠実そうで感じのいい娘なのに、老父の具合が悪くなり、姉だか妹だかはすでに嫁いで家を出ているため、一人残った良き娘の義務として、父親の世話をするために実家に残ることになったとは気の毒だ。もっとも、嫁に行くのが女の幸せだなんて、彼女は思っていなかったが。ジェーンなんて名前はそこいらじゅうに溢れているのだが、この二人のジェーンの境遇はまったく異なっていた。


「パレードを観に行かないのかい」

 その日は、新しい市長の就任式が華々しく行われるはずだった。仰々しく飾り立てた馬車や仮装行列みたいな衣装を纏った護衛たちが市庁舎まで練り歩くのだ。

 彼女自身は、そんなブルジョワの享楽には興味がなかったし、体が泥のように重く感じられ、早く下宿屋の狭苦しい部屋に戻ってベッドに倒れ込みたかった。

 しかし、彼女をまっすぐ見つめるブルーの瞳は、そう簡単に開放してくれそうになかった。

「どうも、それどころじゃなくなったみたいよ。五人目の被害者がついさっき発見されたんですって。あなたは、今帰ってきたところなの?」

「ああ、そうだよ。女だてらにフローレンスなんかで教育を受けたあんたとちがって、こっちは移民の肉体労働者だからね。血に飢えた殺人鬼のナイフなんか、かまっちゃいられないのさ。夕べは金払いのいい外国客がついてね。もうへとへとなんだよ」彼女は、大袈裟にあくびをして見せる。

 普通の娘なら、彼女が春をひさいで生計をたてていると恥じらいもなく口にしたことに露骨な嫌悪と軽蔑を示して退散するのだろうが、この篤志家のお節介焼きは、眉一つあげない。


「ジェーン」青い眼の女は、彼女から目を離さずに言う。「爪が汚れているわね」低い声で、通りには人の姿なんてないのに、聞かれては困る話なのだと強調するかのように。

 彼女は、己の武骨な労働者の手を眺めて確認するようなことはしなかった。夜が白々と明けかけた室内、外付けの共同洗面所から汲んできた水の冷たさを我慢していくら入念に洗っても、爪の間に入り込んで固まったそれは、なかなか落ちないのだ。


「あんたみたいにお上品な暮らしはしてないんでね。こいつあ、とんだ失態だ。豚小屋みたいな部屋に住んで、豚を屠りながら生きているけど、身だしなみは大切だよね。ご丁寧に、ご忠告ありがとう」

 彼女はピンクの頬の女に背を向けて、下宿へと向かう。もう目と鼻の先だった。


「でもね、わたしがここに来たのは、偶然じゃないのよ」

 背後から追いかけてきたジェーンの声はいつもの快活さを欠き、愁いを帯びているといっていいほど沈んでいた。

 彼女はゆっくりと振り向く。


 元は髪色にマッチした、きめ細かな抜けるように白い肌だったはずが、荒廃した生活のせいで、険しい顔には皺が深く刻まれ、本人の言う通り昨晩は徹夜で仕事をしていたのだろう、薄雲りの弱々しい朝の光の下でも、目の下に隈ができているのが見て取れた。若い頃はさぞ美しかったのだろう、と若い方の女は密かに感嘆する。結わえていない豊かな赤毛が波打って、燃えるように輝いている。

「賢いあなたなら、わかっているはずだけど」

 赤毛のジェーンを見つめる青い眼のジェーンの顔には、静かだが揺るぎない覚悟が見て取れた。赤毛は息を吐くと、

「なら、ついてくれば」

 と相手の返事を待たずに歩き出した。



 きちんと片付いているというより、片付ける物すらほとんどない狭い室内を、ジェーンは――青い目の方だ――興味深そうに見回している。

 貧民街の中にあるとはいえ、こんな貸間長屋の一室でも、個室を賃借して一人で暮らせるだけの経済力があるだけはるかにマシという生活を、ジェーンは教会の慈善活動を通じて嫌というほど知っていた。急速に成長を続ける大都市に暮らす多くの男女は失業中で、激安の簡易宿泊所のノミシラミだらけのベッドで眠ることすら毎日は叶わず、広場で野宿をするか救貧院の世話になる屈辱に甘んじるかというどん底の生活にいる。

「あいにくと、あんたの口に合うような茶を出すこともできないけど」

「気になさらないで」

 赤毛の女は、粗末なベッドに腰をかけた。ジェーンは脚のぐらついた丸椅子に腰を落ち着けた。

「で、何の用事だよ。あたしみたいな卑しい女の家に二人きりで閉じこもってたら、あんたの評判が傷つくよ」

「わたしはただ、教えてほしかったの。これでもう五人目よね。ううん、他にもまだ犠牲者がいるのかもしれないけど、わたしは、あなたが手にかけたのは五人だけだと思う」

 赤毛は片方の眉を上げたが、ジェーンの言葉を遮らなかった。

「それでね、わたしが知りたいのは、あなたがこのあともまだ続けるのかどうかってことなの」


 長い沈黙が流れた。赤毛の顔はさらに険しくなり、ジェーンをねめつけたが、小柄な若い女は身じろぎもせず見返している。


「なんでそんなことを知りたがる。あんたに関係ないだろう」

「続けるつもりなら、わたしも、黙ってはいられないと思うの。たとえ、どんな事情があろうとも、五人もの女性を」

「売女が何人殺されようと、面白おかしい記事にされるだけさ」

「少なくとも、わたしの知る四人は、どれだけ落ちぶれても体を売ったりしていなかった。それは誤解だって、警察に言ったし、新聞記者の何人かにも話をしてみたんだけど、残念ながら耳を貸してもらえなかった」

「当然だろ。あいつらにとっちゃ、下層階級の底の底でのたうち回る女は、みんな売春婦なのさ」

「わたしはそうは思わないわ」

「いくら教養があって、身持ちの固い、いい家柄の娘でも、無駄だよ。なぜなら、あんたも女だから。誰が女の言うことなんか聞くもんか」

「あなたが怒るのも当然ね。だから、知りたいのよ。なぜあなたが――いいえ、それは、話したくないなら言わなくていい。でも、わたしは知る必要がある。あなたが、これからも人殺しを続けるつもりなのかどうか」 

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