第39話 ウィズ・ラヴ

 赤毛のジェーンとの出会いはおよそ一年前、身寄りのない移民女が瀕死の状態で病院に収容されたと耳にしてからだ。

 悪名高き「血の日曜日ブラッディ・サンデー」に、時の政府に不満を募らせた労働者や失業者たちによる大規模集会を、警察が暴力を行使して鎮圧を図ったため夥しい死傷者が出ていた。赤毛はそのデモの参加者だった。

 青い目のジェーンは、教会の他のメンバーらとともに病院を頻繁に見舞った。大都市であるから、怪我人の中には流れ者も多く、床についても誰も世話をしてくれる者がない。赤毛の女もその一人だった。

 恐るべき回復力を示したものの、口の重い女は、いくら悪態をつかれようが柳に風と受け流す若い女に根負けして、ぽつり、ぽつりと、故郷くにでは結婚していたこと、夫の暴力のために幼い子を連れて逃げようとしたが子供だけ奪われて傷心のうちにこの国に流れ着いたことなどを打ち明けた。

 貧しい人間、特に女が、まるで男の付属物みたいに扱われるのが我慢できないのだ、と赤毛は幾重にも巻かれた包帯の下から毒づいた。


 青い目のジェーンは、赤毛のジェーンが退院したあとも、彼女の身を密かに案じていた。赤毛はそんなことは望んでいなかったのだろうが。彼女は女にしては背が高く、頑丈な体をしていた。体がほぼ元通りに動くようになると、屠殺場や青果売り場、パブと、失業者があふれる街で得られた仕事は黙々とこなしていた。


 そこへ持ち上がったのが、貧民街の街娼を残酷に切り刻む殺人鬼の事件だった。


「あんたには、恩がある。だから、とっととここを出て、二度と戻って来ないでおくれ。そうすれば、あんたにも、あんたの大事な父親にも手は出さない」

「この足で警察に駆け込むかもしれないわよ」

「もうやったんだろう。無駄だよ。みんな犯人は男だと信じている。当たり前だ。殺されるのは愚かで堕落しきった人生を送る女のほうが喜ばれるけど、血眼になってる警官どもの裏をかいて嘲笑う犯人は、男じゃなくっちゃいけないんだ」

「犯人のことなんて話してないわ。わたしはただ、殺された女性たちの名誉を」

「売春婦の名誉はどうなるんだよ。色情狂じゃないんだよ。多くは失業のせいでそんな仕事しか選択肢がなかった女たちだ。そういう連中は殺されたってかまわないっていうのかい」

 赤毛は激しい怒りを露わにしたが、顔をしかめて深呼吸をした。

「まあ、言いたいことはわかるよ。ちなみに、五番目のビッチは、紛れもない娼婦だった。これで少しは気が晴れたかい?」


 もちろん、ジェーンは浮かない顔をしたままだ。しばらく物思いに耽っていたが、はたと顔をあげた。

「通信社に男名前で送った犯行声明は、あなたのアイデアなの? 捜査を攪乱させるため?」

「わざわざあんな風に悪目立ちしたがる犯罪者がどこにいる。いや、ああいうことを、もし本当に犯人自身がするとしたら、それは間違いなく男の仕業だろう。男ってやつは、クソみたいな虚栄心の塊だからな。真犯人でもないくせに面白がってあんな手紙を送り付けて注目を浴びようとするのも、男どもだ。誰がジャックだよ、くそっ」

「でも、ジェーンというのも本名ではないんでしょう」

「当然だろ。こちとら、アバズレを切り刻んでなくても、後ろ暗いことがありありだからね。どこにでも転がっていそうな平凡な名前だから拝借しただけさ。ああ、失礼、ミス・ジェーン」

「別に構わないわ。それより、聞きたいのは――」

「これからも血に飢えたブラッド・サースティジャックとして娼婦を殺し続けるかって? 安心しな、もう済んだよ。あたしは別に殺人マニアじゃない。ただ」

「ただ?」


 女同士は、結託して助け合うものだ。彼女は腕っぷしに自信があったが、それでも力自慢の船員なんかと本気で殴り合いをすれば、勝ち目は薄い。卑怯にも徒党を組んだ複数の男から襲われる場合もある。

 この国にやって来たばかりの彼女は、野宿する貧しい女――落ちぶれてはいても身を売ることまでは考えない連中――が、襲われてひどい目に遭わされるところを何度も目撃した。

 女一人ではどうにもならない。だから複数で、夜間は特に一人にならないように、お互い身を寄せ合って何とか生きていた。彼女が居れば、男達も滅多に手出しはしてこなかった。それなのに


 血の日曜日に、警官から受けた傷は大したことがなかった(警棒で額を割られて血が噴き出している程度は、かすり傷と数えた)。

 しかし、負傷しながらどうにか逃げおおせた路地裏で、彼女は複数の男達――連中もデモから逃げてきた失業者だ――から囲まれ、血を見て興奮し異常な光を目に宿した彼等から殴られ蹴られするのを、女たちは黙って見ていた。彼女に助けられて、泣きながら礼を言った女が、彼女の危機には立ち上がらなかった。

 退院してからも体が(ほぼ)完全な状態に戻るまでの間、彼女は精神的にも肉体的にも脆くなっていた。

 そのせいで


「あたしは、男が嫌いだ。意味はわかるだろう。若い時に結婚したが、酒飲みの暴力亭主だったし、うまくいかなかった。あいつらが馬鹿で下品で女の上に乗っかることしか考えてないのは、まあ仕方がないと思ってる。だけど、女が女を裏切るっていうのは、許せなかった。だから、落とし前をつけた。それだけだ。初めは、ぶちのめすぐらいで許してやろうかと思ってた。なのに、命乞いに、こともあろうに『あたしも妊娠している。だから助けてくれ』なんて言う。だから切り刻んで、確かめてやった。嘘つきの売女どもめ! とにかく、こっちはもう全部済んだから、次に娼婦が殺されたとしても、それはあたしの仕業じゃない」


 ジェーンの瞳に影が差した。両足を開き気味にベッドに腰かけた赤毛の腹は、ゆったりとしたドレスに身を包んでいても隠し切れないほど膨らんでいる。


「別に、警察に捕まっても構わないんだ。もう、生きている理由もなくなった」

 娼婦の連続殺人事件ほど新聞を賑わせなかったが、浮浪者や船員、町のギャングの一員などが殺される事件が、この界隈では散発的に起きていた。貧民街は元々治安が悪いところなので、同一犯とは思われず、どれも早々に迷宮入りしていた。

 しかしそのことは、目の前の善良な女にわざわざ打ち明けるつもりはなかった。


「まさか、その子を道連れに?」ジェーンの顔がさっと曇った。

「まさか、しないよ。絞首刑をくらったとしても、執行は産んだあとだろう。それでかまわないってことさ。あたしはガキは好かないが、殺したいほどじゃない。こんな母親じゃあ、子の方が迷惑するだろうしね」


 赤毛の女は、無意識にせり出た腹を撫でさすっていたが、爪の中に入り込んだ黒い汚れに気付いて、そっと手を下した。

 ジェーンは静かに言う。

「あなたは、捕まらないと思う。だって警察は、初めから被害者全員を売春婦と決めつけ、犯人は男と決めつけたうえで捜査をしている。あれでは、無理よ。あんな手紙は、警察だって信じていないでしょうけど。新聞社は派手なあだ名がついて大喜びね。でも、犯人が男じゃないなんてことは、夢にも思わないのよ」

「それであんたは、どうするんだい。神のしもべの娘だろう」

「あなたがこれ以上罪を重ねないようにするのは自分の務めだと思ったけど、それ以外のことは知らないわ。だって」

「だって?」

「か弱い女同士は、団結するものでしょう。ただし、一つお願いがあるの。ううん、これは別に、黙っている条件というわけじゃなくて、ただのお願いなんだけど」


 ジェーンはぐらつく丸椅子から立ち上がると、ベッドに座る女の横に腰かけた。安物のベッドが大きく軋んだ。二人の間には隙間があり、この隙間は一生埋まることがないのだ、とジェーンは悲しく考える。それでも、相手の体温が感じられそうなほどそばにいることで、平生からピンク色の彼女の頬は赤味を増した。


「まあ、あなた!」ジェーンが感嘆の声をあげた。

「なんだよ」赤毛が少し驚いてのけぞり気味になった。その大きく見開かれた瞳を、ジェーンは顔を近づけてまじまじと覗き込んだ。

「なんてきれいな、緑色の目をしているのかしら!」


 赤毛は思わずふきだした。

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