第40話 きみの名は
教会の前に生後間もない赤子が捨てられていたという。
発見したのは、ほんの数ヶ月前に教区に赴任してきたばかりの老牧師の娘だ。ピンク色の頬をして、美人ではないが気立ては良いと評判の牧師の娘は、その朝はなんだか胸騒ぎがして、父親のために朝食を準備すると、牧師館から徒歩で十分ほどの教会へと急いだ。
二月の、骨の髄まで凍り付きそうな朝だった。
教会の扉の前に、バスケットが置かれ、その中には、朝陽にきらきらと輝くジンジャー色の髪をした男の赤ん坊がすやすやと寝入っていた。
それじゃあ、彼女はわたしの言葉を覚えていてくれたんだわ。
娘は、バスケットの中から赤子を慎重に抱き上げながら思い出していた。
健康を害した老父が、片田舎の牧師の任務を引き受けたこと。赴任先は、首都から汽車で一時間ほどのXXXXXXというのどかな村であること。もし、数ヶ月経って、その村の教会の前に赤ちゃんが置き去られていたとしたら、彼女は喜んで赤子の幸せのために尽くすだろう、そう告げて、牧師の娘は彼女と別れた。以降、彼女とは一度も顔を合わせていない。風の噂では、あの市長のパレードの日からほどなくして、赤い髪の女は、いずこともなく姿を消したという。
アイリーンというのが本当の名前だと赤毛の女は言った。
それが真実か否か、牧師の娘には調べようがないが、牧師の娘にとってはどうでもいいことであった。
あなたの名前を教えてほしい。牧師の娘は、赤毛の女にそう願った。つまらない彼女の一言で大笑いして、涙まで流しながら「生まれちまったらどうするんだよ」と怒っていたが、笑いの発作が治まると、教えてくれた。
「アイリーンという名前だった。でもね、その女は、故郷を出た時に死んだんだよ」
赤毛のアイリーンは、隣に座る牧師の娘の肩に手を回して引き寄せると、額に優しく口づけをした。
「あんたは別に、あたしのために罪を負うことはない。殺人犯を庇う必要なんか、ないんだよ」
そういって彼女は、牧師の娘を送り出した。
「後悔するぞ」聞き覚えはあるが、誰のものだか思い出せない声を、牧師の娘は思い出し、呟いた。
「後悔なんか、するものですか」
その後彼女が、長い独身人生において折に触れて思い出すのは、あのとき、大きなお腹を抱えたあの女に、一緒に逃げようと告げていたらどうなっていたか、ということだ。老いた父も、この世のしがらみも全て捨てるから、自分も連れて行ってほしい、と。
むろん、「バカじゃないのか、お前は」とか「あんたはあたしの好みじゃない」などと酷い言葉で拒絶されたに違いないが、でもあんな勝気な女でも、ああいう状況であれば、情にほだされるってことだって
「まあ、まずないでしょうねえ」
ジェーンはほっと息をついた。腕の中の赤子がむずむずと動いて泣き出した。初めはひよひよと頼りなげに、しかしたちまち顔をくしゃくしゃにして、近隣住民を叩き起こすほどの音量で。
「あらあら、まあまあ」
ジェーンは素早く頭を巡らして、教区の中で乳母役を頼めそうな母親たちの顔を思い浮かべた。
「レイモンド」この時点ではまだ赤ん坊の性別は不明だったにもかかわらず、ジェーンはサイレンのようにけたたましい声を発しながら小さな拳を振り回す赤毛の赤ちゃんにそっと語りかけた。
「そうだわ。あなたのために、まず編み物を始めよう。なにもかも、きっとうまくいくから、安心してちょうだい」
そしてジェーンは、赤子のレイモンドの額に優しくキスをした。
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