第32話 はじまりの物語
ぶぅうう……んんん……
耳鳴りのような音が治まると、女たちが一斉に顔をあげた。
広い部屋だ。
椅子やテーブルを何セットも置ける広さがある。かつては、夜な夜な贅を尽くした舞踏会に集う紳士淑女で賑わっていたような趣がある。
しかし今、実際にそれをうかがわせるものは、天井からぶら下がっている豪奢なシャンデリアぐらいで、それは手を伸ばしても届かないくらい高い位置から彼女たちを見下ろしている。
女たちは、皆、一糸纏わぬ姿で、立ち尽くしている。
この光景には、見覚えがある。霞がかった頭で彼女はそう考える。
やがて、少しずつ我に返った女たちの間で、ひと騒動持ちあがる。
「いやだ」
「なに、これは」
「一体どうなってるの」
「ここは、どこ」
そして、あの男が現れる。大騒ぎになる。
膝を抱えて床にうずくまった娘を残して壁際に移動する女たちの中に彼女は混ざっている。
男の姿にも見覚えがあった。
美しい顔、彫刻のような裸の肉体、ただし下半身は、動物の毛皮と、蹄――魔物? 悪魔? そんなところ。
老婆と、赤毛と、男の間でひと悶着あって、女たちはメイドに誘導されて大広間を出る。彼女もそのなかに交じっているが、先ほどから右の手首に感じていた違和感が強くなったことに顔をしかめる。そっと見下ろすと、くびれた腰の横に力なく垂れたそれが、ぷらぷらと揺れている。
どうも、おかしい。
「その手、どうしたの?」ひどく小さな体、子供じみた声。
その顔には見覚えがあった。当然だ。
これはわたし。と彼女は思う。
部屋に案内されると、右手首の違和感が、耐え難い痛みへと変貌した。どうやら、骨が折れているようだ。が、怪我をした記憶はない。
いや、ある。
ない。
そんなことはどうでもいい。
わたしは化粧台の鏡に映る自分の姿に見入っている。
この体。
丸い乳房は小ぶりだが、まだ大きくなりそうだった。痩せているが、きゅっと締まったウエストから腿に至るカーブが美しい。お腹がぺたんこすぎるが、あと一、二年もすれば一人前の女らしい丸みを帯びるにちがいない。
大人になりかけのティーンエイジャー、その瑞々しい肉体に、わたしはうっとりと見とれる。立ったままだと顔の部分が途切れてるが、それは特に重要ではない。問題なく成長を遂げることができる肉体を有している、それがわたしにとっては重要だった。なぜなら
「XXX」
名前を呼ばれて、わたしは振り返った。
しかしそれは、わたしの名前ではない。
異常に背の低い、醜い女がわたしを上目遣いに睨みつけていた。ああでも、これはわたしじゃないか。そう、この顔は、たしかに、わたしの、顔。
いつの間にかメイドの姿が消えていることにわたしは気付く。簡素な部屋の中にいるのは、こちらのわたしと、あちらのわたし。あちらのわたしは、その小さな体に合ったワンピースを身に着けている。
「それがわたしの名前?」こちらのわたしの口が勝手に動く。正確には、この肉体が、そう喋った。わたしを魅了させた、この若く美しい肉体は、わたしの思い通りには動かないことに気付く。
「どうしてあなたはそんなことを知ってるの? わたしは、何も思い出せないのに」
ああ、この場面にも覚えがある。わたしは、あちらのわたしが次に何を言うか、知っている。
「わたしは、なんでもお見通しなのよ」
「あなたの顔、どこかで見たような気がする」こちらのわたしが言う。「でも、わたしは自分の顔さえ覚えていない」
そこでわたしは、初めて化粧台の鏡で自分の顔を見ようと、かがんで覗き込む。
だが
「やめろ、見るな!」小さい体に似合わぬドスの効いた声が飛び、化粧台の大きなブラシが、鏡に叩きつけられる。
「あっ」
破片が飛び散り、わたしは驚いて右手を顔の前にかざそうとして、手首に走った激痛でさらに悲鳴をあげた。骨折した右の手首は、ありえない角度で折れ曲がり、力なくぷらぷらしている。
わたしはあまりの痛みに耐えかねて吐いた。
「あらあら、これじゃあ食堂へは行けないわね」あちらのわたしが言う。
「ここで寝て待ってなさい。あたしが何か食べるものを持って来てあげるから」
わたしは、あちらのわたしに言われるままに、ベッドに横たわった。少し動くたびに衝撃で骨折した箇所に激痛が走るから、脂汗を浮かべながら寝ているしかなかった。
「安全のために鍵をかけておくわね。誰か来ても、返事をしちゃだめだよ」
あちらのわたしはそう言うと、鍵穴に刺さったままだった鍵を抜き取り部屋を出ていった。
外側からかちりと鍵が回される音がした。
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