第24話 惨禍
彼は廊下に広がる光景を眺めている。
頭部を叩き割られた女、喉を切り裂かれた女、目玉を抉られた女、全身から煙を発している女、それらに交じって二、三メイドも倒れている。
ジェーンの部屋があるのとは反対側の端、食堂の入口に。長いテーブルに座る数名の体は、皿の上に突っ伏し、指は鉤状に折れ曲がり、苦悶の表情を浮かべている。どうやら食べたばかりの物を嘔吐したらしく、彼女たちは自らの吐瀉物の中に顔を突っ込んでいる。
すえた匂いに、腐敗の甘ったるい臭いが早くも混ざっている。腐っているのは、食べものか果てた肉体か。
彼はそこに立ったまま全てを眺めていたが、悲鳴や怒声、苦痛の呻き声をあげる女たちには彼の姿が見えていないようだ。
毒物は、温室に行きさえすればより取り見取りだった。イチイ、トリカブト、ドクゼリ、ジキタリス、マンドレーク、毒キノコ各種等々、知識さえあれば。
一方、屋敷内で手に入る攻撃用の武器には限りがあった。それがこの惨状の一因だ。斧で頭を一撃され絶命したのならまだ幸いだったと言えるが、躊躇いが手を鈍らせ、肩などに当たり、絶叫、血を噴き出しながら逃げる背中にさらに一撃、それでもまだ致命傷に至らず振りかぶった手が血で滑り、這いずりながら逃げる相手の脇腹をかすめた刃が攻撃者の足指を切断等々、とにかく無様で、それでいて執拗、そして残酷。
女たちの中には、人を殺すとはどういうことか、熟知している者も何人か含まれているのだが、惜しいかな記憶を失っている。情夫と共謀して十七人の若い女を拉致、拷問の末遺体を切り刻んで処理し警察の目をかいくぐっていた女が、血塗れのテーブルナイフ(食事で使う銀製のナイフだ)を手に襲いかかられて絶望の悲鳴を上げる光景が面白く感じられるのはせいぜい最初の三十秒ほど、血走った眼で狂ったようにナイフを振り下ろしているのが老人相手の詐欺で大金をせしめた卑劣な輩だが直接的暴力とは縁遠かったことも加味すればプラス十秒ぐらい楽しみが持続するが、あとはただただ冗長で退屈だ。一撃で仕留めるのなら、狙うのは目だろう。だが襲われる方だって必死で抵抗するから、狙ったところで当たらない。致命傷には至らない浅い傷を、いくつもつけられた元殺人鬼は、決死の反撃に出る。相手にむしゃぶりついて、転げまわるうちに、爪で顔を掻き毟る、耳に噛みつき千切り取る。目に指を突っ込む、もう滅茶苦茶だ。
暖炉の薪で火をつけられた女は、人間トーチと化して廊下に飛び出し、力尽きるまで走り回った。鎮火に従事していたメイドが暴徒に襲われた。かわりの山羊ならいくらでもいるからその程度の犠牲は構わない。残りの女たちに食欲が残っているなら、晩餐に山羊の丸焼きとして提供してやってもいい。髪の毛まで燃えて全身を赤黒い火傷で覆われた女は廊下のカーペットと壁に焦げ跡を残して水をくれと呻いている(水を与えると死期がはやまるので、与えない)。
ただ数日閉じ込められただけでこのザマだ。まったく女ってやつは。
開いたままのドアの中には、さらに凄惨な光景がある。女がベッドに横たわっている。ドレスが胸までまくり上げられ剥き出しになった腹部は異常に膨張し、臍から下が縦に裂けている。彼が蒔いた種を孕んだ子宮の急激な拡張にさぞ苦しんだことだろうが、やがて成長しすぎたそれが自ら腹を裂いて出てくるはずが、予定より早く腹の方が勝手に裂けた。これは、女が帝王切開による出産経験者で、古傷の部分が脆くなっていることを彼が計算にいれていなかったせいだが、裂け目の中で、それは血と羊水の海に溺れかかっていた。
彼は片手で毛まみれのそれの首の後ろを掴んで引き出し、臍の緒をもう片方の手で千切った。
きゅうきゅうと、それは弱々しい声をあげている。ぎゅっと瞑った瞼を透かして見える真ん丸の茶色の瞳は父親似だ。しかしそれ以外は。ふやけて青白い全身をぼそぼそとまばらな毛が覆っている。長さが四、五センチほどもある毛はまっすぐで
「それ、生きてるの?」
長身の彼の半分ほどにしか達しないみすぼらしい体格の癖にかすり傷一つ負っていない娘がいつのまにか傍らに立っている。
「プリンセス」
薄笑いを浮かべた彼の指を、それが齧った。眉を顰めて、放り投げたそれは、湿った音を立てて母親の上に落下した。それはきゅうきゅう泣きながら剥き出しの乳房にすがりついた。
「ああ、見ての通りだ。弟がほしければ、くれてやろうか」
「やだ。かわいくないもん」
「身も蓋もないことを言う」
「ねえ、お乳を飲むんじゃなくて、食べてるんだけど」
「まあ、歯が生えているからな」
まだ息絶えていなかった母親が、低い呻き声をあげた。急速に進む妊娠の苦痛を物語るように、シーツは汗でべっとり、濡れた髪が醜く歪んだ顔に貼りついている。
プリンセスが顔をしかめて見守るなか、赤子――といっても体重は五千グラムを超えていそうな丸々太った毛むくじゃらのいやらしい獣――は、産みの親の乳房を貪り食っている。
「どうしてその女のひとは鼻が欠けてるの?」
女の顔にはゴムのような醜い腫瘍がいくつもできていたが、鼻の部分は失われており、鼻腔が二つ、縦に細長い穴となって覗いている。
「これは梅毒という病気だ。普通は感染してからこの状態になるまでは何年もの月日がかるんだが、ちょいと進行を速めてみたんだ」
「なんでそんなことをするの?」
「罪人には罰が必要だろう?」
「よくわかんないけど、ひどいとおもう」
「散々楽しんだんだ。その代償は払ってもらう」
げっぷの音と共に、母親の乳房を貪っていた赤子が食べたものを吐いた。
「いえぅ」
プリンセスは思い切り顔をしかめて、男をまっすぐに見上げた。
「ねえ、あなた、変な仮面を被っているの?」
「なぜそう思う?」
「他のひとたちが言ってた」
「お前にはどう見えている?」
プリンセスは目を細めて男を上から下まで眺めた。彫刻のような端正な顔立ちだが、目の輝きがおかしい。虹彩が金色で、よく見れば瞳孔が横に広いことがわかる。上半身は裸で、これも彫像のように均整がとれているが、下半身は獣の毛に覆われている。
「お前には、隠せないらしい」にいっと笑った口の端から長い牙が覗いた。
プリンセスはいっそう目を細める。頭に角のようなものが生えている。捻じれた枝のような長い角が、二本。まじまじと顔を見ると、それはヒトではなく山羊、一つ目の山羊。いや、瞬きして目を凝らしたら、角も山羊の顔もなくなり、美しい男の顔に戻っている。
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