第28話 三体

 かりかりかり

 どしん、どしん

「ぐわぁおおぅ」


 ジェーンはみしみしと危険な音を立てて軋む扉を前に、眉間に深い皺を寄せている。手には編みあがったばかりのピンク色の何かが握りしめられている。

 不思議と、恐怖心よりも好奇心が先に立っている。この薄い板を隔てた向こう側から、こちらへ侵入しようとドアを引っかき(どうやら、それには長く頑丈な爪が生えているらしい)、体当たりをくらわせ(どうやら、それなりに重量があるようだ)ている何か。人間であるとは思えなかった。いくら殺気立って殺す気満々だったとしても、女たちの一人であるなら、こうはならないだろう。


 では、なんなのか


 待っていればわかるという心の声と、覗いて、確認してみればいいとそそのかす声。

 施錠してあるが、鍵穴には鍵が刺さったままだ。あの鍵を引き抜き、鍵穴からちょいと見てみればいい。そうすれば、これから自分に何が起きるかも予測できようというもの。

 そっと扉に歩み寄り、鍵を抜き、そして身をかがめた。


 鍵穴の向こうからは、茶色く真ん丸の瞳が覗き返していた。


 ジェーンは小さく息を呑んで、鍵穴に鍵を戻し、かちりと音がするまで回した。間髪入れず、どしん、という衝撃と共に扉が勢いよく開き、ジェーンの小柄な体を弾き飛ばした。

 床に倒れた老女が目を開くと、ほんの数歩離れたところに、毛むくじゃら――といってもぞろっと長い毛は地肌が透けて見えるぐらいまばらで、発育が良すぎる乳児の如く太りじしの体のラインが卑猥に見える。大きさは、赤子よりも二回りほど大きく、子熊のようだ。


 あらまあ


 茶色い真ん丸の目は、そのまま子熊のようだ。これで、いびつに歪んだ口からギザギザの歯が覗いていなければ、かわいいと言ってもよいかもしれない。

 だがしかし


 こぢんまりとした生き物にちまちま肉を齧りとられるより、あの最初に死んだ女のように、巨大なヒグマに食われる方がまだしもマシではないのか。


 とはいえ、そんなことを今悔やんでみても仕方のないことで。

 その獣は、ドングリのようなつぶらな瞳でジェーンを見つめている。口からたらたら透明な液体を滴らせているのは、明らかに彼女のことを食べ物と認識したからだろう。ジェーンは無意識のうちに握りしめた両手にまだピンク色の毛糸と編み棒を握りしめていることに気付く。


 こんなもので抵抗してみても、ねえ。


 小さい獣は四つ足でお尻を振り振り(ちょうど、丸々と太った小熊のようだ)、ジェーンの前まで来ると、後ろ足で立あがって、彼女が手にしているピンクの編み物に鼻面を寄せ、ふんふんと嗅ぎまわった。

「ぼうや、これはねえ、編み上げたわたし自身にも使い道がよくわからない代物で」

 獣は毛糸のそれを口に咥えると素早く飛び退った。そして老女から安全な距離を保った位置で、両手に持って表、裏、小首を傾げながら眺めると、頭にかぶった。


「おやまあ、それがなんであるにせよ、あなたにはちょっと小さすぎたみたいねえ。もしよかったら、そうね、もう少し毛糸を足して、よだれかけかケープを作ってあげましょうか」


 カカカカカッ、と獣は猫が毛玉を吐くときのような音を立ててジェーンを威嚇した。そして、どうやら非常に喜んでいるらしいく、頭に乗せた毛糸の編み物にそっと触れ、ギザギザの歯を剥き出しにして、笑った。


 あらまあ。でも、気に入ってくれたようで何より。


 胸の前で二本の編み棒を両手で握りしめていると、小さな影が二体、部屋の中に滑り込んできた。それは、先に部屋に押し入ってきた毛むくじゃらの子熊もどきと同じ種族で、最初の個体よりはやや小ぶりにながら、むちむちと太っており、四つ足だった。


 か―――ッ

 ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ

 ぐわおおぅ


 どうやら、第一号が頭に被ったピンクの編み物を巡って、三つ巴の争いが勃発していた。ギザギザの歯を剥き出しにしてお互い威嚇しあっている。

 それを見て、ジェーンは胸の内が温かくなるのを感じた。彼女の編み物が、かつてこれほどの人気と熱狂を持って迎えられたことがあっただろうか(恐らくなかった)。


「ねえあなたたち、そんな風に喧嘩しなくてもいいのよ。あとの二人――ヒト、なのかしらねえ――の分も編むわよ。もちろん、その時間が残っていれば、だけど」


 牙を剥き出し、鋭い爪の生えた前脚を振り回してはお互い威嚇し合っていた三体の獣は、ジェーンの言葉でぴたりと動きを止め、彼女の方を見た。


 Uh-oh


 ジェーンのように教養も嗜みもある淑女でなければ “Shit” とか “F●ck” などと口走るであろう状況だ。信心深いために、みだりに神の名を口にすることもないが、相当にまずいことになった。

 三体は、お互いの体を引き裂く気満々だったことをころりと忘れたようだった。後脚で立つ姿はシルエットだけは子熊のようで、よだれを垂らしながらジェーンを凝視している。


 あらまあ、この子たち、よほどお腹が空いているのかしら。何もこんな老人を食べなくてもよさそうなものだけど。


 内心でいささか呑気すぎる感想を呟いていても、体は痺れたように硬直し、動くことができなかった。逃げようと試みたところで、彼女の身体能力ではどうせ逃げ切れまいが。


「おい、婆さん。生きてるかい。うわっ」


 猟銃を構えて駆け込んできた赤毛の女が、三体の小さな獣を見て、柄でもない悲鳴を上げた。


「なんだよ、こいつら」


 獣たちは、赤毛の女が銃口で狙いを定めるより素早くドアをすり抜け廊下に飛び出していった。


「あなたに助けられるのは、これで三度目ねえ」ジェーンは大きく息を吐いた。

「ありがとう」

「前にも言ったが、素直にありがたがってる場合じゃないんだよ」

「外はひどいことになってるようね」

「ああ、あらかた死んだみたいだ。お互いに殺し合ってね。馬鹿な連中さ。あたしが数えた限りじゃ、この階で十五人ほど廊下と部屋で死んでた。メイドも何人か、とばっちりを受けてた。下の階はどうなっているか」

「そう。さっきの、熊と人間のみたいな生き物は、一体何かしら」

「ああー……そういや、妊娠したみたいに大きな腹が裂けて死んでた女が三人いたね。三人とも梅毒の末期症状みたいに鼻が欠けててあちこち腫瘍だらけだった」

「まあ、そういうことなの」

「そういうことって?」

「梅毒は性交渉で感染するものでしょう」

「こんな女だらけの環境でどうやって――あ」赤毛は口をつぐんだ。

「あの男は、仮面がなければ――ううん、むしろ、仮面があるからこそ魅力的に見えたのでしょうね」

「どういうことさ」

「仮面を被っていなかったら、誰も側に寄りたいなんて思えなかっただろうってこと」

「くそっ。あの野郎」


「ジェーン、ジェーン!」


 叫びながら部屋に飛び込んできて二人を驚かせたのはアビーだった。


「ジェーン、無事だったんですね。さっきの毛むくじゃらのいやらしい生き物は何です?」

「わからないわ、アビー」ジェーンはアビーに手を取られるままにしていた。

「でも、あまり近づかない方がいいことは確かね」

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