第27話 聖母の怒り
襲撃を(一時的とはいえ)猶予されたのは、ジェーンだけではなかった。
アビー、プリンセス、そして未だ昏睡から目覚めないレーコが籠城している小部屋も、廊下から聞こえてくる阿鼻叫喚をよそに、不穏な重苦しい空気を孕んだ沈黙に包まれていた。
アビーはベッドに横たわるレーコに付き添っている。ほとんどが水分のような薄い粥を定期的に口から流し込んでいるとはいえ、意識を失って三日目、それすらも受け付けなくなっている。当然、衰弱はいっそう進行し、やせ細った体は薄くからからの皮膚が張り付いているだけのスケルトンの人体模型のよう。
知らぬ間にひっそりと息を引き取っていてもおかしくない。
それでも、アビーが恐る恐る指先をかざしたレーコの唇や鼻腔からは、かすかな呼吸が感じ取れた。額にかかる髪を指先でそっと梳いてやると、ごっそりと抜けて枕の上に落ちた。アビーは思わず短い悲鳴を上げた。
胸が悪くなるような甘ったるさを含む嫌な臭いが部屋の中に満ちている。
書斎で後頭部に受けた傷口が化膿しているのだ。包帯を毎日取り換えているが、物言わぬメイドにいくら身振り手振りも交えて説明してみても、消毒薬や抗生物質といった類のものは支給してもらえなかった。ずっと意識が戻らないことももちろん心配だった。当初、外傷はさほどひどくないように見えたが、内部では致命的な損傷が発生しているのかもしれない。
だが、こんな状況では、そのほうがむしろ幸運と思うべきだろうか。
アビーは抜け落ちた髪の束を枕から払い落とすと、レーコの頭をそっともちあげて包帯を解き始めた。朝取り替えたばかりだというのに、もう嫌な臭いを発する汁が染み出ている。
傷口には、膿。アビーは眉をしかめた。ぱっくり割れたまま塞がる気配がない傷口にぐずぐずと湧いた嫌な臭いのする膿のところどころに、白いものがこびりついている。解いた包帯の端で、その白いものをすくい上げてみた。まっ白く、クリーム状の、何か。傷口から分泌された物質とは思えなかったし、こんなものは、室内には――
アビーははたと気づいた。そして、全身を怒りが駆け巡った。
プリンセスが初老の婦人から分けてもらったというクリーム。寝たきりの老人の肌がカサカサで粉をふいていたため、保湿クリームをメイドからもらったのだと。そのクリームの小さな入れ物を後生大事に両手で包み、あの娘はせっせと、細く骨ばった膝に塗っていた。
随分と滑稽なことをするものだと思いつつ、その時は見過ごしていた。あのクリームを、自分には内緒でレーコの傷口に塗ったのか。
なんて馬鹿な子!
怒りに震える手でなんとか可能な限りクリームにまみれた膿を取り去り、新しい包帯を巻いた。当の幼い少女が不在であることは、幸いだった。アビーは感情をコントロールすることに困難を感じるようになっていた。
新しい包帯を巻き終えると、気持ちが治まった。
確かに、あの子は保護者である自分に隠れて余計なことをした。だが、おそらく彼女なりに、レーコの快方を望む行動だったのだ。子供にとっては、ただの保湿クリームが万能薬のように思えたのだろう。あるいは、それが万能薬であることを願った。子供らしい、悪意のない行動だ。
今更怒っても仕方がない。現状でレーコにしてやれることは少ない。この若い娘は、ほぼ確実に助からない。傷が治ったところでどうせ死ぬことになるのだ。だったら、幼い子供の無分別な行動を罰してなんになろうか。
その
いや、時間の経過が定かではないから、「少し前」ではないのかも。
アビーはプリンセスのことが心配になった。
しかしプリンセスはどうやら、一部の人間からは
そんなことは、悪魔の所業だ。
アビー自身は悪魔の存在など信じていないが、いつかレーコが言っていたことが、恐らく正しいのではないかと思う。『悪魔が存在しないなら、神だって存在しない』と東洋の娘は言った。
ならば、悪魔の存在を認めるとき、神の存在も認めざるを得ないということだ。
激しい怒りがまたアビーを包んだ。神も悪魔もくたばるがいい。あの忌々しい少女も。
しかし、プリンセスに対する怒りは不安と愛情がないまぜになって、アビーはいてもたってもいられなくなり、子供を捜しに行くことを決意する。
ドアの外の騒ぎは、一応治まっているようだ。
アビーはレーコに一瞥をくれてから、静かに鍵を開けて滑り出た。
まっすぐに伸びる廊下は、そこかしこに女たちが倒れ、血と煙と肉の焼ける臭いに満ちていた。
袖で鼻と口を押さえながら、アビーはまずジェーンの部屋に向かうことにした。半寝たきりのジェーンは真っ先に狙われるか、いつでも仕留められると最後まで捨て置かれるかのどちらかに思われたが、ここまで戦局が進んでいては、どちらであっても同じかもしれなかった。
愚かな連中が同士討ちで果てていればその限りではないが……
立ち尽くすアビーの視線の先、廊下の末端にある老女の部屋から、勢いよく飛び出してきた者があった。くすぶる煙越しに目を凝らしたアビーが小首をかしげて凝視していると、それはいやらしい毛を長く生やした子供のような裸の生き物で、二体ないし三体が組んつほぐれつ、ピンク色の何かを奪い合いながら恐ろしい速さで直進してくるのだった。
跳ね飛ばされる前に慌てて身をかわしたアビーには目もくれず、それ――いや、それらは、廊下を走り去った。
呆気に取られて得体の知れない生き物の背中を見送ったアビーは、はっとした。
「ジェーン!」
アビーは最悪の予感におののきながら老女の部屋へと急いだ。
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