第4話 ダイニング・ルーム

 老いた女がメイドに抱えられて半ば引きずられるように食堂に入ってくるのを、手持無沙汰の彼女はじっと眺めていた。女たちは一様に顔色が悪く元気がないのだが、あの老女ときたら、すっかり血の気を失っている。まるで、そう、深淵を覗き込んだら覗き返されたみたいな顔。一体何歳なのだろう。六十五か、七十。ああして介助されながら歩いていると、九十歳にも見える。


 服を着ている時の方が弱々しく頼りなげだなんて。


 ダイニング・ルームには矩形の長いテーブルがあり、女たちは長辺の両側に別れて座り、メイドたちは壁際に並んで控えている。老女の席は、入口から入ってすぐの末席、ドアに背を向ける側。一方彼女は、その反対側、メイドに案内されるがまま、中央の席に導かれ、四角張った硬い椅子にやや身を強張らせて座している。ここからなら、容易に人の出入りを監視することができる。


 監視?


 皆が同じ制服じみたワンピースに身を包んでいる中で、老女だけ肩に……ショール? ウールのショール? を羽織っており、メイドの助けを借りてどうにか着席した老女の片方の肩からずりおちかけたそれを、メイドがかけ直してやっている。

 老女の名前は、ジェーンといった。いや、あの奇態なマスクを被った男がそう呼んでいた。彼女は、自分にも名前を授けてほしい、と願う。


 名前を授ける?


 いや違う。そうではなくて。

 元々自分が持っていたはずの名前を、返してほしい。どういうわけか、ここにいる女は全員記憶を失った名無しばかりらしい。自力で思い出すことができず、誰も教えてくれないのであれば、そう、その場合は、新たな名前がほしい。


 名前を持たない女たちは、暗い顔でまだ空の食器やグラスしか置かれていないテーブルの上や膝の上で握りしめた手を不安げに見つめている。たまに周囲に素早く視線を走らせる者もあるが、誰も口を開かない。

 ダイニング・ルームの照明は蝋燭だけで、テーブルの上や壁際の燭台全てに火が灯されているが、広い部屋の隅は暗い翳に沈んでいる。それでも、この部屋でかつて催されていたはずの饗宴きょうえん――エレガントなドレスの衣擦れの音、ウイットに富んだ会話、忍び笑い、銀のナイフが皿に当たる微かなクリック音――を想像することは難しくなく、みすぼらしいワンピース姿では居心地が悪いことこの上ない。


 食堂に来る前、彼女はメイドに案内された簡素な個室で、化粧台の鏡に映る自分の姿に見入った。

「これが、わたし」

 どういう自分を期待していたのか、それすらわからない。年齢は三十代の半ばと思われた。柔らかい髪の生え際を指ですいてみても白髪はない。まだ二十代だと言い張ってみてもよいかもしれない。


 だが、一体何のために? 


 ここでそんな虚勢を張ることに、一体どんな意味があるというのか。ノーメイクの顔の小皺やハリを失いかけた皮膚、それらを総合すれば、さほど若くないことは明白に思えた。

 クロゼットにたった一着吊るされていたワンピースを着こんで、栗色の髪を整えると、年相応な美しさを遠慮がちに秘めた中年女の姿になった。

 口元に笑みを浮かべてみる。

 少しぎこちないが、悪くない。こざっぱりとしていれば、優しく誠実そうに見える。

 そう、こういう風貌だと、誰からも疑われない。地味すぎて他人の亭主の気を引くようなことはまずなく、貞淑な妻として母として、不寛容なコミュニティの一員としてそれなりに敬われるが、平生は存在している事さえ忘れ去られている。それほど、とるに足らないミセス・サムバディ誰それの奥方。そういう風情だ。


 いや、今はサムバディ誰かですらなく、ノーバディ誰でもないだ。


 ふふっ、と忍び笑いが唇の隙間から漏れた。

 テーブルの向かい側に座っている女たちから厳しい視線を向けられていることは、よけいに彼女を愉快な気持ちにさせた。この場にそぐわない笑いをかみ殺すために、何か悲しい思い出に浸ろうとしたが、すぐさまそんな思い出はないことに気付いた。本来それは悲しむべきことなのだろうが、もう我慢できなかった。


 テーブルの中ほど、入口と向き合う側に座した女が一人声を上げて笑い始めたのを、他の女たちは唖然として見つめた。


 きっと、あの女は、発狂したのだ。


 押し黙っていた女たちから、初めは細波のようにひそひそと、それから、より大きな糾弾のうねりとなって、食堂の高い天井に怒号がこだました。


「何がそんなにおかしいの」

「気持ち悪いわね」

「クスリでもやってんのかい」

「頭がおかしくなったんだろうさ」

「やめて、こっちの頭がおかしくなりそう」

「自分一人だけ、ここから逃げ出そうってのかい」

「そうだ、あの女は、逃げたんだ。自分だけ」

「うるさいよ、誰かそいつを黙らせな」


 最後の野太い声は、マスクの男に食ってかかって無様に投げ飛ばされた四十女のものだとわかった。しかし、わかったからといって、彼女は笑いうのをやめられない。今や、涙を流していた。呼吸も苦しい。顎が外れるかもしれない。それでも止まらない。このまま死ぬのかも。そうなれば確かに、こんな世界からいち早く脱出したことになるだろう。


 それも、わるくない。


 素足にスリッパを履いた足首に冷たい感触があり、女は涙で滲む視界を下に向けた。小さな女の子の顔が、テーブルの下から覗いていた。一人だけ明らかに体の小さな裸の姿があったことを彼女は思い出す。痩せっぽちの女の子だ。今は、他の者たちと同じワンピース(ただし子供サイズ)を着ている。あまりにも小さいので、存在を忘れていた。どこに座っていたのだろう。


「アビー」


 テーブルの下の暗がりで大きな目をさらに見開いた小さな手負いの獣のような少女から絞り出された蚊の鳴くような声が、そう呼んだ。

「アビー、わたし、お腹がすいちゃった。ご飯、まだかなあ」

 女の子はテーブルの下からするりと抜け出ると、女の首に両腕を回し、抱きついた。子供の柔らかい髪が涙で濡れた彼女の頬を撫でた。憤怒の表情で、テーブルの反対側から、女の両側から、彼女のワンピースに手をかけ、椅子から引きずりおろそうといきり立っていた女たちは、小さな体を傷つけることを恐れるかのように、素早く手を引っ込めた。


 アビー?


 何を言っているのだろう、この子は。わたしが誰か、知っているのだろうか。わたしたちは、自分のことさえわからないというのに。肩を上下させて呼吸を整えながら彼女は考える。華奢だが温かい少女の体をそっと抱きしめた彼女は、もう笑っていなかったし、涙も止まっていた。

 アビー

 この子は、お人形に名前をつけるみたいに、わたしに名前をつけた。

 そして、彼女は、アビーは、それを気に入った。まったく自分のもののように思えなかったが、悪くない名前だった。

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