死と乙女
春泥
宴の仕度
―誕生―
まず、遠慮がちな光があった。
弱々しい光が眩しく感じられるということは、そこは暗いのだった。
常闇の奥、はるか遠くに、一条の光が差していた。
今にも
光
まず横に、それからゆっくり縦に広がっていく光が、わたしを呑み込んだ。
眼を開けていられない。手を顔の前にかざすが、無意味だ。光は難なく瞼を透過してくる。
光、光、光、光――
光の洪水の中、呼吸もままならない。ああ、生まれるのだ、とわたしは気付く。
いやだ、怖い。
ぎゅっと目を瞑るが、許してはもらえない。
いやだ
怖い
いやだ
いや――
*
視界は灰色がかっている。
集中しないと垂れこめる重さで塞がってしまう瞼を、こじ開けている。なぜそんなことをするのか、それはわからない。
少し粘り気を帯びた水溜りに横たわる体が見える。痩せぎすであばら骨の浮いた薄い胸板、ぺたんこの腹、細すぎる手足。小さく、あまりにも脆弱な。
これは、わたし?
落胆。絶望と言い換えてもいい。なぜ、こんな。
これじゃなければよかった。
たとえば、壁際で軽く膝を折り曲げて横たわる体は、少したるみが出ているとはいえ、よく発達した乳房とがっしりした腰回り、程よく丸みを帯びた腹部、それに、股間に影を落とす柔らかそうな毛が、豊かにウエーブした長い髪の色とマッチしている。ああいう一人前の姿ならよかったのに。臍の下から縦に伸びる古い傷跡さえ愛おしく妬ましい。
薄明るい部屋の中には、他にも様々な肉体が横たわっている。皺くちゃで枯れ枝みたいな体、腹の肉が液体のように床に垂れた肥満体、美の女神が細部にまで気を配ってこしらえたみたいに完璧な曲線を描く体、老いも若きも、美も醜も。
しかし、いくら目を凝らして視線を彷徨わせても、わたしほど小さくか細い体は、他に見当たらない。
ちえっ
思わず舌打ちをしたが、音は鳴らなかった。かわりに、こぽ、と口から生温かい水を吐いた。それが、注意を引いてしまった。わたしは、まずいことになったと悟る。
――性悪女め、もう目が覚めたのか。
視界に覆い被さってきた、顔。
男。
高い鼻梁と、引き締まった顎。いかにも女泣かせといった酷薄な風情。両端を引き上げた唇は、紅を差したみたいに赤く、濡れている。
男は、大きな柔らかな布で、わたしの顔や体を拭った。優しく抱き抱えて、そうっと。ほとんど、畏怖しているみたいに、丁寧に。わたしの肩を抱く逞しい腕、わたしの体を、髪を撫でまわす手、柔らかい布を通して伝わってくるその感触が、あまりにも冷たく無機質なので、わたしはそら恐ろしくなる。まだしも、歪んではち切れそうな欲望にせかされる無骨な手の方がましというものだ。
――もう少し、眠っておいで。どんな悪夢も、ここよりは甘美でやさしいはずだから。
男は輪郭がぼやけるほど顔を近づけて、耳元で囁いた。男の息がわたしの耳をくすぐる。熟れ過ぎた果実のように甘やかなのに、鉄の臭いが微かに混じっている。
男が体を起こしたので、全身が見えるようになった。
男も、裸だった。筋肉の隆起が美しい。思わず見惚れて、目が離せなくなるほど。引き締まった腰から下はしかし、灰色がかった毛に覆われている。獣毛、としか言い表しようがない。毛皮を纏った男の下半身は、獣だ。二本脚で立ってはいるが、それを支えているのは、先が二つに分かれた、
後方に一歩下がった蹄が、意識なく横たわる女の手首を踏みつけた。
ごっ
砕かれた骨が嫌な音を響かせたが、踏まれた女はぴくりともしない。若い女の体だ。わたしと同じように細すぎる手足を持っているくせに、胸には未だ発達途中と思われる膨らみがあり、わき腹から大腿にかけて蠱惑的曲線ができあがっている。瑞々しくこれから開花する
わたしは、何よりも、その肉を憎んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます