第一部 死の舞踏

DAY 1

第1話 女体の林

 ぶぅうう……んんん……


 耳鳴りのような音が治まると、女たちが一斉に顔をあげた。

 広い部屋だ。

 椅子やテーブルを何セットも置ける広さがある。かつては、夜な夜な贅を尽くした舞踏会に集う紳士淑女で賑わっていたような趣がある。

 しかし今、実際にそれをうかがわせるものは、天井からぶら下がっている豪奢なシャンデリアぐらいで、それは手を伸ばしても届かないくらい高い位置から彼女たちを見下ろしている。


 女たちは、皆、一糸纏わぬ姿で、立ち尽くしている。


 年齢は様々だ。ある者はモデルとして画家に寵愛されそうな完璧なプロポーションをしており、裸で立つ姿もどこか自信ありげで誇らしそうに見えるのに対し、中年を過ぎて肥満した肉が腹回りで段になって垂れ下がった体や、老いて萎びた裸は、遠慮がちで気恥ずかし気だ。


 しかし、女たちに対してそんな主観的美醜判定を下す者は、ここにはいない。


 女たちは、まるでワニスの光沢を放つ床板から直接生えたが如く、思い思いの方角を向いて乱立している。女中がよほど丹精込めて磨きぬいたのか、経年による深みを帯びた木材は、女たちの姿を白ちゃけたさかしまな像として映し出しているのだが、どこか夢見がちな女たちの瞳はそれを捉えない。一様に暗い眼をした彼女たちは、精巧に造られた彫像のように微動だにせず、ただ立ちつくしている。


 だが、時間が経つにつれ、焦点の定まらない瞳に、光が戻って来た。


「ああ」

 誰かが、溺れる者が空気を求めるように大きな音をたてて息を呑んだのが発端となった。

「いやだ」

「なに、これは」

「一体どうなってるの」

「ここは、どこ」

「どうして……なんで……どうして」

 そんな声が、悲鳴混じりに一斉に噴出した。女たちは自分の体をかき抱くようにして精一杯覆ったり、床にしゃがみ込んだりした。


「あたしの服はどこ。あなたたちは一体、誰」


 床にうずくまった若い女――年の頃は十七、八だろうか――が頬を羞恥と怒りに染めて泣き声をあげた。膝で隠した胸板は薄く、脇腹にはあばら骨が浮き出ている。顎よりも上のラインで切りそろえられた断髪のため、他の女たちのように長い髪で胸を覆うことすらできない。


「それは、こっちの台詞だよ。あんたこそ何者なんだい」


 そう言い返したのは、四十代と思しき女で、豊かな髪が胸の上や背中にこぼれていたが、それを活用して少しでも前を隠そうという無益な努力を一切放棄して、ややたるんだ体を晒したまま仁王立ちしている。

「あたし? あたしは」十七、八の娘は、細く切れ長の目を精一杯見開いた。

「え、やだ、あたし……誰?」

「はあ? 何言ってんだい、この間抜け」

 四十女は、十七、八の娘に掴みかかるかのように一歩踏み出したが、足に力が入らず、たたらを踏んで、転倒した。


「あらまあ」


 皺深い顔の老女が呟き、よぼよぼとした足取りで倒れた女に近づいて、腕に手をかけた。

「大丈夫、怪我はない?」

「気安く触るんじゃないよ、婆さん。あんたはわたしの好みじゃない」

 四十女は、老女の骨ばった手を振り払い、一人で立ち上がろうともがいた。

「慎重にしたほうがいいわ、お嬢さん。どうも、わたしたちは、みんな生まれたばかりの小鹿みたいに足腰がおぼつかないみたいだから」

 老女は気を悪くした様子もなく、少し身をかがめた姿勢で四十女を見下ろしている。

「お嬢さん? ふざけないでよ。あたしゃ、これでも」

 四十女は、はたと口をつぐんで、どうにか自力で立ち上がった。その間、彼女の素早く彷徨う視線が、周囲の女たちや、自分のたっぷりと肉のついた腰回りや豊かすぎて垂れ気味の乳房を抜け目なく観察していたことを、老女は見逃さなかった。

「わたしから見れば、十分若いお嬢さんよ」老女の口調はあくまでも穏やかだが、その瞳は悲しそうだった。「やっぱり、あなたも、そうなのね」

「やっぱり、なんだっていうのさ」

 立ち上がった四十女は上背があり、どちらかといえば小柄な老女より頭一つ分ほど背が高かった。光沢の失われた、ほぼまっ白でふわふわした頭髪のてっぺんから、しなびて垂れさがった乳房、そこだけ不自然に膨張した腹、昆虫のように細く頼りない脚へと続く皺深く染みだらけの皮膚を遠慮なくじろじろ眺められても、老女は恥じ入る様子もない。


「やっぱり、あなたも、あちらの娘さんと同じなのね」老女はそっと言った。


 林の木々のように立ち尽くしていた女たちの口から、一斉に息を呑む音が漏れた。


「それじゃあ」と床に座り込んでいる若い娘は、涙声で言う。

「自分が誰だか思い出せないのは、わたしだけじゃないんだね。ど、どうして、こんなことに」

 背骨の浮き出た背中を丸めて床に突っ伏した若い娘の嗚咽をかき消す騒ぎが、女たちから沸き上がった。髪を掻き毟る者、拳で頭を強く叩く者、悲鳴をあげ続ける者、集団ヒステリーの様相だ。

 老女のガラス玉のような瞳に影が差した。その老女と相対していた四十女は、しばらく呆気にとられて同胞たちの狂態を眺めていたが、次第に顔つきが険しくなっていった。

「静かにしないか、このうす馬鹿どもが」

 四十女は声の限りに罵声を浴びせたが、多勢に無勢、そのドスの効いたよく通る声すらかき消されてしまう。

 

「ちょっと、はしゃぎ過ぎだ」


 どこからともなく降って湧いたそれは、男の声だった。さして声を張り上げたわけでもないのに、その深いバリトンは、広い部屋の隅々まで行き渡った。


 静寂


 皆の視線ががその声の主の姿を求めせわしなく行き交い、瞬時に捕えた。その声の主だけ、あまりにも異質で目立っていた。

 それは確かに、男だった。裸の女たちのなかにあって、その男はぴっちりとした洋装でめかしこんでいた。ある者はそれを見て古めかしく時代遅れな格好だと思い、ある者は流行の最先端をいくモードだと思い、別の者は仮装パーティーかコスチュームドラマの衣装だと思った。


 そして、その男は、おかしな仮面マスクを被っていた。


 けたたましい悲鳴があがった。

 我に返った女たちは仮面の男からできるだけ離れた部屋の隅まで移動し、背を向けて、可能な限り相手の体で自分の体を隠すようにしながら、悲鳴を上げ続けた。


「うるさいったら。これだから、女ってやつは……」


 顔を完全に覆い隠すマスクの下から呟いた男の言葉は、女たちの金切り声にかき消されてしまった。

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