第2話 仮面の男

 シルクのスリーピース・スーツ、いたってフォーマルな装いである。「スリーピース・スーツ」には誕生から数百年に及ぶ時代の変遷があるが、一貫して格式ばった場面で重宝されてきたものである。

 臀部まで覆う刺繍を贅沢に施したウエストコートの上に裾がわずかに広がる膝丈のコートを羽織り、襟元と袖からはひらひらしたレースが覗いている。これも膝下丈のブリーチズの下から覗く白いストッキングに包まれたふくらはぎの筋肉が美しい。細く引き締まった足首を支えるのはヒールの薄い、先の細くなった革靴。それでも十二分に背が高く、見栄えのいい男に違いなかった。

 このまま宮廷に赴いて国王に謁見したり高貴な女性やその侍女に色目を使うことだってできる。


 ただ異様なのは、その男の顔がマスクですっぽり覆われていること、そして、相対する女性陣が皆裸である以上、どうしても過剰にドレスアップしているように見えてしまうということ。


 女たちは今、可能な限り男から距離を置こうとした結果、大広間の壁の端に男に背を向ける形で身を寄せ合っている。総勢二、三十名といったところか。

 例外は、言い争っていた(というより若い方が一方的に他方に突っかかっていた)二人、四十女と老女、それに、床にうずくまったまま動けなくなっている、娘。彼女らは、壁際に立つ女たちと男の間で、無様にも剥き出しの体を晒している。


「なんなのこれ、信じらんない」


 膝を胸にかき抱き床に突っ伏している娘が金切声をあげた。痩せぎすなので、短く切りそろえた髪の下から覗く首の付け根から背中へと、骨の突起がごつごつと突き出している。

「なんであんただけ服を着てるのよ。ていうかそれ、何時代の服? コスプレ? なんでもいいから、あたしの服を返してよ、このヘンタイ!」

「コスプレってなんだよ、間抜け。お前は黙ってな。やい、このイカれた魚頭――」

 四十女が豊かな髪をなびかせてつかつかと男に歩み寄っていく。


 男は気怠けだるそうに片手を振り上げた。


 まだ男の手が届く範囲内に達していなかったはずの四十女の体が、いとも簡単に弾き飛ばされて、壁の隅に固まっている女たちの上に落下した。恐怖と痛みの混じった悲鳴がいくつもあがったが、男がてのひらを掲げて見せると、彼女たちは一斉に口をつぐんだ。

 しどけなく大股を開いてのびている四十女は、壁際まで引きずられて寝かされた。

「うるさいと言っているだろう」

 男の声が天井の高い空虚な室内に響き渡った。

「お前たちは、自分の立場がわかっていない」


「あなたが、教えて下さるのかしら」


 男の首がゆっくりと動いて、声の主を捉えた。壁際の女たちから離れて一人立つ老女は、男をまっすぐ見つめ返していた。

「お前」

 マスクの下の声がひび割れた。老女までは、彼の長い脚でも七、八歩の距離が開いていたのに、小さな風を起こすことすらなく、男は老女の前に立っていた。

 小柄な彼女は、先程よりもさらに高みから見下ろされることになったし、マスクから大きく突き出したくちばしのような先端に眼球を突かれる恐れもあったが、それでもわずかに顎をあげて、冷たい硝子玉みたいな青い瞳で、臆することなく男を見返す。わずかに眉をしかめれば、マスクの下まで見通すことができるとでもいうように。


 先に沈黙を破ったのは男の方だった。


「お前、ジェーンじゃないか」男の声には侮蔑と嘲りが込められていた。「ざまあねえな。こんなところまで堕ちてくるとは」

「ジェーン」老女は舌の上でその音を転がしてみたが、自分の名前であるという実感が湧かなかった。

「それが、わたしの名前なのかしら。ここにいる女性たちは、皆自分が誰なのか思い出せないみたいなのだけど、あなたは、わたしたちが何者なのか、知っているのね」


 マスクの下から忌々し気な舌打ちが漏れ聞こえた。


「小賢しい女は嫌われる。だから行かず後家だったんだ。虚しくならないか、ジェーン。他人がああした、こうした、こう言った、そんなことに目配りするだけの人生なんて」

 男の言葉を吟味するかのように、老女は小首を傾げた。

「どうかしら。わたしには、自分の生涯が思い出せないから、なんともコメントしようがないわね」

 でも、少しは賢かったのなら、それはよかった。ええ、多少詮索好きだったとしても、賢くないよりは賢い方がいいもの、と老女は男のマスクから視線を逸らし、独り言のように呟いた。

 顔を完全に覆うマスクのせいで表情はわからないのに、女たちは、男の全身に漲る激しい怒りを感じとることができた。

 男の両手がゆっくりと老女の喉元に伸びていく。四十女を跳ね飛ばすほどの怪力の持ち主だ。小柄な老婆など、その手にかかればひとたまりもないだろう。

 皆が恐怖に体をこわばらせ、呼吸をするのさえ忘れた。老女自身、視界の端で男の動きを捉えていたが、成す術がなかった。


 ただ一つ、一同の中でもとりわけ小さな体が、目に見えない緊縛をものともせず、つ、と男に歩み寄った。


 それは子供の姿をしていた。十歳ぐらいだろうか。いや、もっと幼い。あまりに小さくか細いので、今までその存在に誰も注目しなかったのだ。老若混淆する女たちの中で、彼女一人だけが、未だ初潮すら迎えていないであろう、まだほんの子供であった。

 子供は、マスクの男の前まで来て、呆然自失といった風情で立っている。女たちの一群の中では唯一まだ羞恥心が芽生えていない年頃のためか、凹凸に乏しい裸体を隠そうという意思が感じられない。

 男は老女の首にかける直前の手を止め、首を傾げた。明らかに、マスクの下の瞳は幼子おさなごに注がれていた。


 仮面を通して男の視線に晒される中、子供は派手なくしゃみをした。


「寒い」

 少女は鼻をすすりあげると、近くにあった萎びた体にしがみついた。自分の世界に引きこもっていた老女は、小刻みに震える小さく滑らかな体の温もりで我に返った。

「おやまあ。可哀想に。わたしたち、何か着るものはもらえないのかしら。せめて、毛布でも」

 男は老婆の喉元めがけて伸ばしていた手をゆっくりと引っこめた。

「いいだろう」男は首を振りながら言った。

「メイドたちに、部屋まで案内させよう。身支度を整えたら、食堂まで来るといい。積もる話は、それからだ」

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