第14話 覚醒
天井の漆喰。薄目を開けた時に見えたのは、その見覚えのない光景。
寝心地のよくないベッド。彼女を不安げに見下ろす顔――それは彼女の甥や姪たちのどれでもないが、見ず知らずの他人というわけでもなくて。
「アビー……?」
かすれ声。喉がざらついている。
「ようやくお目覚めかい、婆さん」
アビーよりもハスキーな声。彼女の隣から覗き込んでいるのは、燃え立つような赤毛の女。
「どうしてドアに鍵なんかかけるんだよ。お陰でぶち破るのに往生したよ」
赤毛の女の言葉で、彼女は首を捻って扉の方を見る。狭い部屋だ。ベッドから視界の届かない部分はほぼない。だが、ドアにはこじ開けられたような痕跡はなかった。かわりに、と言っていいのか。彼女の隣には、頭に白いターバンを巻いた東洋の娘が目を閉じて横たわっていた。シングルベッドなので二人ではいささか狭苦しく感じる。
そして、よく見れば、東洋の娘の頭部に巻かれているのは、ターバンではなく包帯。
わけがわからないわね。
横に向けていた首を軋ませながら元に戻したジェーンは、正直にお手上げだ、と目で訴えてみた。
「ここは、わたしの部屋です。」とアビー。
「わたしと、プリンセスの部屋。ここが、書斎から一番近かったので。一階の書斎で、大地震が起きました。レーコは落下した本で頭部に傷を負いました。それで、この部屋まで運んで手当てをしました。ジェーンさんの部屋は、ドアが……大破したので、こちらに移ってもらいました」
「埋もれた本の中から掘り出すのは、大変だったんだから。まったく、世話を焼かせるんじゃないよ」赤毛の女が逞しい腕を胸の前で組んで言う。
「なぜ、レーコと?」とジェーン。
東洋の娘が自分で思い出したとは思えない、ということは、あの子供が気まぐれに命名したのだろう。確かに東洋の娘の国の女性にありがちな名前のように響くが、なぜそのチョイスなのかが気になった。
こんなときに、一体なぜそんなことが気になるのかしら。
「なんでも、書斎で画集を見たのだそうです。東洋の画家の画集です。そのなかに、レーコという名前の娘の絵があったそうで」
「そうなの」
「どうでもいいじゃないか、そんなこたあ。それより婆さん、自分に何が起きたか覚えてんのかい」
赤毛の女の言葉に、ジェーンはぎゅっと目を瞑った。
窓
女
首に食い込んだロープ
ゆらゆら揺れる
だらりと垂れた舌
揺れる、揺れる、揺れる――
そんなものが、一瞬で脳裏を駆け巡った。
「殺してほしいと、頼んでいた」老女の目尻を伝って、涙がこぼれ落ちた。
「ああ、とどめを刺してやったよ。安心しな」赤毛女は吐き捨てるように言う。
「どうやって? 窓は、開かなかったでしょう?」
「あんたの部屋のドアを撃ったショットガンで、窓ごと吹き飛ばした。窓ガラスはすぐに元通りになっちまったけど、吹き飛ばした頭は元に戻らなかった」
「そう。そうなの。ありがとう」
「なんであんたに礼を言われなきゃならないのさ」
「わたしには、とてもそんなことはできなかったから。なんとかしてあげたかったけど、何もできなかった。ありがとう」
「やめなよ、気色わるい。あんなもんにいつまでも窓の外でにぶら下がっていてほしくなかっただけだよ。お陰で貴重な弾を無駄にしちまった」
「ショットガンなんて、どこにあったの」
「こういうでかい屋敷には、狩猟用の銃が置いてあるもんさね」
「でも、そんなもの、何に使うの」
あの男に対して効果があるとは思えなかったし、赤毛の女には、粗野な見た目とは裏腹に、瞳の奥には知性が感じられた。
なのに、なぜ、なんのための武器なのか。
「婆さん。あたしは、あんたみたいに賢くもないし、往生際も悪くってね」
赤毛の女は肩をすくめて見せた。
「あたしたちの中には連続殺人鬼がいるって話じゃないか。自衛が必要になるかもしれないだろ」
「『毒殺魔』がいるとあの男は言っていたわ。毒に銃で立ち向かうのは無理じゃないかしら」
「あんな男の言葉を信じるのかい? まあ、何がいたっておかしくない気はするけどね。毒殺魔よりも質の悪い凶暴な奴が紛れている可能性だってあるだろう」
「それは、そうね」
ジェーンは素直にうなずき、疲労困憊した様子で再び目を閉じた。
「何を考えているか、当ててやろうか。『お前が一番怪しい』。そう思ってんだろ?」
「外れたわ。『毒殺魔が自分だったら、少なくとも毒殺される心配はなくなるのに』って考えてたのよ」
ブーッ、と赤毛の女は不満と侮蔑を表す下品な音を閉じた唇の間から発した。
「確かに、非力な年寄りには似合いの犯罪だよね、毒殺ってのは」女は踵を返して、部屋を出て行こうとした。
「あなたは、名前を付けてもらわなかったの?」目を閉じたまま、ジェーンが言った。
「なに? あのチビ助に? 勝手に名前なんかつけられたくないね。あたしは、あたし。どうしても必要っていうなら番号でもつけな。囚人番号145980」
赤毛の女が部屋を出ていくと、アビーはほっと息をついた。
「あの子は、無事なんでしょうね?」
「ええ、ここに一緒にいるように言ったんですけど、聞かなくて。一人ででかけてしまいました」
「子供に言うことをきかせるのは、無理ね」
「それで、あなたたちに一体何が起きたの? 地面が、揺れた、わね。あれは、地震?」
「ええ」アビーは顔を曇らせた。
また一人、非業の死を遂げたと知り、ジェーンの心は沈んだ。
「書斎は壁一面に並ぶ書棚に革張りの立派な本がずらりと並んでいました。でも、あんなにたくさんあるとは」
激しく地面が揺れるなか、書棚から落下した本が舞い踊っていた。それは文字通り、ただ落下するのではなく、まるで蝶のようにひらりひらりと舞い、あちこちにぶつかり、そして一人で立ち尽くす女、褐色の肌が美しいコーフィーめがけて、降り注いだ。
彼女をその逞しい腕に抱きすくめていた男は姿を消していた。
アビーは、意識を失ったレーコと、恐怖に泣き叫ぶプリンセスの体を抱き寄せ、固く目を閉じていた。
それでも、その光景が見えたのだという。
レーコを一撃で昏倒せしめた、重々しい革張りの書物たち。それらに一斉に襲いかかられた華奢な女の体は、たちまち打ち倒され、床に倒れた。その女の上に、次から次へと本が襲いかかり、どうにか立ち上がろうと四つん這いでもがいていた女の体を、上から横から打ちのめした。本が当たった部位の骨が折れる音が、地鳴りの轟音にも負けず鳴り響いた。何度も、何度も。折れた腕の骨は皮膚を突き破って外に飛び出し、口からも血を吐き、背中を強打した本が彼女の背骨を砕いて、コーフィーは完全に床に伏して立ち上がれなくなった。
そして
「気が付いたら、わたしたちが隠れているデスクの周りも、すっかり本に埋もれていました。地震で歪んで開かなくなっていた書斎の扉を斧で破壊して、わたしたちを掘り出してくれたのは、あの赤毛の女性が率いる一団です。『もう一人埋まっている』わたしは、コーフィーのことを彼女に告げました。でも、彼女が立っていた書斎の中央には、天井まで届くほど高く本の山が築かれていました。彼女はその下にいて。微かに声が聞こえていました。でも、どうしようもなくて。下手に本をどけたら、山が崩れてくるかもしれないから」
あの赤毛の女傑であっても、もはや成す術がなかったのだそうだ。それは、そうだろう、とジェーンは思う。書物は、ショットガンや斧よりも強いのだ。
「赤毛の女性は、書斎での異変に気付く前に、まずあなたの部屋に向かったんだそうです。生きたまま熊に食われた娘よりもなおひどい惨劇を思わせるような悲鳴が鍵のかかった部屋の中から聞こえてきたから。そして、鍵のかかったあなたの部屋のドアを破ろうとした時に、地震が起きたと。揺れが収まってから、彼女はまずドアの鍵を銃で吹き飛ばして床に倒れているあなたを救出し、それから、屋敷内を回って、他にも何人か、室内で転倒して怪我をした者なんかを助けたそうです。こちらの揺れはそれほどひどくなかったようですね。書斎に順番がまわってきたのは、かなりあとになってからです」
「そちらも大変だったのね」
ジェーンの言葉に、アビーは微かに微笑んだ。
「わたしがメイドに頼んで、あなたをこの部屋に運んでもらいました。ジェーンさんの部屋の扉は、銃で吹き飛ばされてしまいましたし。レーコと一緒にいてくれた方が、わたしもお世話をしやすいので」
「あなたたちが無事でよかった」
「レーコは、頭に裂傷を負っていて、それ自体はそれほどひどくはありませんでしたが、まだ目を覚まさない。いっそのこと、このまま眠るように逝った方が本人のためかもしれません」
「そうね。でも」
問題は、そんな穏やかな死に方を、あの男が許してくれるのかということだけど。
深い疲労に包まれたジェーンは、眠りにおちていった。
老女の規則的な寝息に聞き入っていたアビーは、一人ででかけていったプリンセスのことが心配になった。並んで寝ているジェーンとレーコが肩までしっかり毛布にくるまれるように調整してから、そっと部屋を出た。
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