第13話 地震

 絶叫

 悲鳴

 絶叫

 わけのわからない言葉

 そんなものが自分の口から呼吸をする間も惜しんでほとばしり出ていることを、ジェーン自身は気付いていない。彼女の耳には、何も届かないからだ。

 奇妙な静寂

 そして、切り取られた時間

 すべては静止している、その中で、窓のすぐ外にぶら下がる女の死体――おっと失礼、まだ死んではいなかった――が、ゆらゆらと揺れている。

 風など吹いていないのに

 いや、風がびょうびょうと吹いているのかもしれなかった。窓は開かない。試してみたわけではないが、それはわかっていた。例えわかっていないのだとしても、老女は窓を開ける気はない。


 充血して今にも眼窩から転げ落ちそうに膨張した女の眼球が、ぐるりと動いて、彼女を、ジェーンを見据えた。


 その瞬間から、顎が外れて口の両端がばりばりと裂けないのが不思議なくらい、叫んでいる、わめき散らしている。


 ドアの外が騒がしくなった。開けろ、とか、斧か何か持ってこい、とか、そんなことを叫んでいる。しかし、それも老女には聞こえない。肩に巻いていたショールが滑り落ちていたが、それも気付かない。

 窓の外の女の口が、舌をだらしなく垂らした唇が、僅かに動いた。


「…………」


 それは、言葉にならない、言葉。

 わたしにはできない、とジェーンは思う。叫びながら、思う。

 あなたにとどめをさすことなんて、わたしにはできない。

 二人はしばらくのあいだ見つめ合っていた。

 ドアの外の物音が、いっそう激しくなった。

 そのとき、どん、という衝撃とともに、足元が、揺れた。



 壁の書棚がみしみし音を立てていた。

「机の下に隠れるの、早く!」

 東洋の娘が、放心した女児の腕を掴んで、頑丈そうなデスクの下に潜り込んだ。

「アビー!」

 プリンセスの悲痛な声で我に返ったアビーは、よろめきながら女児の横に潜り込んだ。窓ががたがたと鳴り、重たげな本が次々と床に落下する音がした。

 だがコーフィーは、男の腕に抱かれたまま、動かない。部屋全体ががたがたと激しく揺れているのに、二人が立っている場所だけ影響を受けていないかのように立ち尽くしている。


「年老いた夫を見殺しにした女には、似合いの死だな。あの男がどのように死んだか教えてやろうか。お前が、『置いて行かないでくれ』と懇願する哀れな老人を置いて、一人で避難したあとのことだ」


 白い漆喰の壁。外は熱帯の気候だが、涼し気な色合いで、風通しよく設計された南国の家。やや成金趣味が窺える贅沢な調度品。

 それが、踊っている。

 立っていられないほど地面が揺れている。何もかもが、ダンスを踊るみたいに、跳ねて、横滑りし、上から物が落ちて、砕ける。

 萎びて染みだらけの腕を点滴に繋がれた老いた男の上に、壁が崩れる、天井が落ちてくる。


 そんなビジョンが、一瞬デスクの下で息を潜めている三人にも見えた気がした。


「わたしは」

 コーフィーは背後から彼女の体をそっと撫でている男の手に自分の手を重ね、力を込めた。

「後悔したことは、一度もない。あの生活は地獄だった。年老いた夫に、わたしは金で買われた。わたしの家族は貧しかったから、妹や弟たち、それから老いた――といってもわたしの夫だった男よりは年下だったけど――両親のためになるのなら、それでいいと思った。でもあの地震が起きて」

「絶好のチャンスだと思ったか」

 男はコーフィーのうなじに唇を這わせながら囁く。


「大地震が起きて津波の危険性がある時は、何を捨ててもまず自分の命を救うために高台に避難する、それが基本のキでしょ。彼女は何も間違ってない!」


 突然、東洋の娘が机の下から身を乗り出して金切声をあげた。その娘の頭を、一冊の厚い本が直撃した。言葉もなく昏倒した娘を、アビーが慌てて机の下に引き戻した。

「レーコ! 死んじゃやだ!」

 プリンセスが娘のぐったりした体を揺さぶりながらおいおい泣き出した。

「レーコ? この子に名前をつけたの? ああ、揺さぶらないで。脳震盪を起こしてるかもしれない。揺れが収まるまで、そっとしておかなければ」

 アビーは狭いデスクの下で、ぐったりしたレーコの体が外にはみ出ないよう長い手足を必死で引き寄せた。

「まったく、お前たちには人情ってものがないのかね」

「あなたにはあるっていうの?」

 アビーは男を挑発するようなことを口走ったことを後悔したが、止まらなかった。

「その人は、天災にかこつけて日頃の不満を噴出させてしまったかもしれないけど、結果的には、レーコ――この東洋の娘が言うように、正しい行動だったのでは? 動けない夫を助けようとしていたら、彼女も死んでいたかもしれない」

「でも、悔やむ気持ちが一度もわいてこないなんて、そんなこと、許されるのかしら」

 コーフィーの声は悲しそうだったが、机の下からは彼女と男の様子をみることはできなかった。そして、それは幸いなことだった。


「許すって、誰が? こんな状況にわたしたちを追い込んでも平気な顔で見過ごしている『神』とかいうもの? レーコの国では、『仏陀』か『八百万の神』かしら? ねえ、一体どんな罪を犯したら、熊に生きたまま食われたり、何時間も何日も首を吊られたまま苦しむような残酷な死に方をしないといけないわけ? 地震で倒壊した建物の下敷きになるなんて、それに比べたら」


 アビーははたと口をつぐんだ。彼女はニュース映像を見ただけだが、痛ましい光景だった。などと言っていいものとは、思えなかった。


「だが、この女の元夫は、瓦礫の隙間で三日間生きていた。発見されたのは二週間経ってからだし、足を潰されていたからどのみち助かる見込みはなかったがね。ああ、ちなみに、この女の家までは津波は来なかった。幸いにも、ね」


 くくくっ、と忍び笑いが聞こえた。コーフィーだった。彼女は、泣いてもいるようだった。


 揺れがいっそう激しくなった。机の下から飛び出さないように、踏ん張っていなければならないほど。ばさばさと本が落ちる音が続いた。


「悔いる心さえ持たない罪人よ、望み通りの死をくれてやろう。本の山に潰されて、身動きの取れない苦しみを味わった末に、地獄に堕ちるがいい」


 あたかも、ここはまだ地獄ではないみたいな言い草。

 しかし、アビーはそれを口にすることができなかった。ごうごうと地響きがして、本が一斉に書棚から飛び出し、降り注いだ。アビーたちが隠れているデスクの上や周辺にも、鈍器と化した書物が降り注いで、積みあがっていった。

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