第8話 優しく揺らして

 ジェーンは自室のカーテンを閉めた。窓の外、庭には、樹齢百年を優に超えていそうなオークの大木が常緑の葉を茂らせているのだが、そこにぶら下がっているモノを見たくなかったのだ。

 宴が解散となってからすでに数時間は経過しただろうか。

 中性的で無垢な清らかさを湛えていた若い女性が、ロープで吊るされゆらゆら揺れている。


 だが、風は吹いていない。


 他の草木はちっとも揺れていないのだから、風のせいであるわけがなかった。彼女の体がいまだに揺れているのは、体重が軽すぎるがゆえ。首に食い込む太いロープは彼女の喉を締めあげ、呼吸を困難にし、多大なる苦痛を与えるものの、小柄で華奢な彼女の体の重みでは、首の骨を折ったり気管を潰したりするほどの負荷をかけるには至らないからだ。いつまで経っても死にきれず無様に脚で空を蹴り、もがいて身をくねらせるから、揺れる。

 マスクの男は、当然彼女のような体型の者を絞首刑にすればどうなるか、知っていたのに違いない。

 ジェーンは、他の女たちの後を追うことはせず、食堂からまっすぐ自室に戻って来た。高齢の自分に手伝えることはあまりないと知っていたし、落ち着いて考えを整理したかった。


 ただ、考えたからといって、どうなるものでもないということもわかっていた。


 今回は、それなりに苦痛を味わうが、比較的楽に死ねる方法を自ら考案するぐらいしかその明晰な頭脳の使い道がない。

 なんということだろう。

 相変わらず過去のことは思い出せなかったが、自分はどうあっても、考えずにはいられない性分なのだろうとジェーンは思う。

 だが、その「明晰な頭脳」とやらを、彼女は犯罪に使ったのだ。むろん、男の言葉を信じるならば、だが。疑う理由は、特に思いつかない。

 このような仕打ちを受けなければならないほどの犯罪に自分が手を染めた。そう考えても、特にショックだとかいうことはない。どんな人間だったか、覚えていないのだ。期待も失望も、現時点ではできっこない。


 ノックとんノックとん


 遠慮が過ぎて、空耳を疑ったジェーンは、書き物机の前から立ち上がったものの、ドアを見つめて立っていた。メイドが戻って来たのだろうか?

 

 ノックとんノックとんノックとん。「あの、おばあちゃ……じゃなくて、えーと、ミス・ジェーン」


 若い娘。その声には聞き覚えがあった。神が必要最小限の労力でノミを振るって彫り上げた最高傑作といった風情の、異国風の美しい娘だ。


 異国風?


 そう、オリエンタル風。かつてジェーンの祖国とは敵対関係にあった国。

「どうぞ。開いてるから」

 おずおずとドアの隙間から顔を出した娘の姿を見て、ジェーンは唖然とした。

「裁縫道具があれば、もう少しましにできたんだけど。これ、そんなに変かな」

 東洋の娘は、ワンピースの裾を、膝上丈にするために横に裂いて、さらに、不要となった部分を細くベルト代わりにして腰に結わえていた。ベルトで絞ってウエストラインを強調しても、全体的に細身のため凹凸に乏しい体型だが、短いスカートの下からまっすぐ伸びる脚は長く、見栄えがよかった。当初の印象よりずっと背が高く(胴体よりも脚の方が長いため、膝を抱えて床に這いつくばっていた姿はひどく小さく見えたのだが)、年の頃は十七、八といったところか。大人に眉を顰めさせるようなことをしたがる年齢。

 ジェーンは開いたままになっていた口を閉じてから、慎重に言葉を選んで、言う。


「わたしの住んでいたところの人たちは皆保守的だから、そんな風邪を引きそうな姿で歩いている若い娘を見たら、卒倒してしまうでしょうね。とはいえ、あなたは異国の人みたいだから、こちらとは習慣が異なるのでしょうね」

「わたしの住んでいたところでは、同年代の子はみんなこれより短いスカートを履いて、いかに下着を見せないようにするのか苦労してた」

あらまあオウ・ディア

「盗撮してくるヘンタイがいるからね。エスカレーターとか、階段がやばい」娘は早口にまくし立てる。

「エスカレーター?」


 怪訝な顔をするジェーン。娘が口を開くより先に、再びノックの音がした。


「あらまあ、今度は誰かしらね。どうぞ。開いてるわよ」

 扉を開けたのは、三十代と思しき女性と、まだ幼い少女。

「どうぞ、入って。といっても、椅子は一脚しかないのよねえ」

「わたし、ここでいい」と少女がきちんとベッドメイクされた掛布団の上に飛び乗った。スリッパが片方脱げて宙に舞った。

「いけませんよ、お姫さまプリンセス」三十代の女がたしなめる。

「プリンセス? それがその子の名前? キラキラネームじゃん」と東洋の娘。

「きらきら……なんですって?」顔をしかめる三十女。

「アビーがつけてくれたのよ」少女は頬を膨らませ、ベッドの上をごろごろ転がる。

「アビー?」老女からの問いかける視線に、三十女は微笑んだ。

「思い出したわけではなくて、この子が、つけてくれたんです。名前がないと、何かと不便ですから」

「そうよ、わたしがつけたの!」

「そうなの。ええそうね。名前がないのは、困るわね。番号で呼んだりしたら、囚人みたいだし」

「なんでプリンセスなの?」絨毯の上に座り、胡坐をかいた東洋の娘が問う。

「小さい女の子に、そういう呼び方をすることがあるのよ」と老女。

「ふーん、甘やかされてんだ」

「甘やかされてないもん!」


 プリンセスと呼ばれた少女は頬を膨らませた。アビーは、剥き出しの長い脚をクロスさせた東洋の娘のスカートの短さに一瞬ぎょっとしたが、すぐに視線を逸らせた。彼女はどうやら、自分と同じ時代・同じ文化に近しい価値観を共有しているようだ、とジェーンは思う。

「で、プリンちゃんとアビーさんは、なぜここに?」

「プリンじゃない、プリンセス!」

 プリンセスがベッドの上から飛びかかり、二人が取っ組み合いの喧嘩を始めた――といっても年長の東洋の娘はきゃあきゃあ悲鳴を上げながら年下の少女に対し手加減しながら応戦していたので、ジェーンはアビーに化粧台のスツールを勧め、自分は書き物机の椅子に腰をかけた。


 アビーは、ジェーンが食堂から退出したあとも、しばらくプリンセスを抱きしめて途方に暮れていた。だが、仮面の男が話していたこと、苦痛ある死しか受け付けないことや、毒殺魔が混じっていること等を思い出し、意味をじっくり噛みしめるほどに、恐ろしくなった。

(「毒殺魔!?」プリンと格闘しながら頓狂な声をあげる東洋娘。「後で話すわ」とジェーン)

 そうでなくとも、今さっき熊に同胞が一人食い殺され、一人はロープを首にかけられ絞首刑となったばかりだ。

 アビーは、まだ幼い少女を自室に連れて行くことにした。

「さあ、お姫さまプリンセス、あなたはわたしの部屋にいらっしゃい」

 アビーの言葉に、少女は顔を輝かせた。

「プリンセス? それがわたしの名前なのね! すてき!」

 あまりに嬉しそうなので、訂正するに忍びなかったアビーは、無言で少女を自室に連れて行った。その途中で、首を振りながら引き返してくる数名の女たちから、ロープに引きずられた女の哀れな末路を聞いた。


 首にロープをかけられ、食堂の外に引きずり出された女は、長い廊下を引き回され、階段では頭を下にして体をあちこちぶつけながら踊り場まで下り、踊り場の窓硝子を突き破って、庭の花壇に落下してカラフルに咲き誇る花々を背中で潰し、そこからさらに引きずられて、薔薇の茂みに突っ込み、大木の下まで運ばれると、太い枝の一本に吊るされた。無論、足が下に届かない高さに。

 大木に吊るされてもなおもがき続ける女を、あのままほうっておくことはできないと女たちは思った。

 だが、外に出る術が見つからなかった。

 ロープに引きずられた女がぶち破った窓は一階と二階の途中の踊り場の天井近くにあり、彼女達には手が届かない高さだったし、届いたとしても足をくじいたり骨折したりせずにそこから飛び降りるのは難しそうだった。

 女たちは一階まで下りて庭に通じる扉を探したが、見つからなかった。ピアノの置かれた部屋のフランス窓も、施錠されておりびくともしなかった。

 女たちが成す術もなく右往左往する間も、樹齢百年を超えると思われるオークの木から宙づりにされた女は、首に食い込むロープを掴み、苦しそうに舌を突き出しながらもがき、ゆらゆらゆれていた。


「あれじゃ生殺しだ。なんぼなんでもひどいよ」

 女の一人が絶望的に叫んだ。

「どきな!」

 何かと好戦的な四十女が、どっしりとしたピアノ用スツールを頭上に高々と掲げて立っていた。

 獣じみた唸り声とともに、女はスツールをフランス窓に投げつけた。派手な音がして、硝子が粉々に砕け散った、と思いきや、次の瞬間には、硝子はすっかり元通りになり、スツールは所在なさげに庭に転がっていた。


「まあ」ジェーンは悲しそうに目を伏せた。あれから何時間たったのか、時間の感覚を失っていたが、哀れな女は、未だに果てることができず、大木に吊るされゆらゆらと揺れているのだろうか。ぴっちり閉められたカーテンの向こう側で。

「恐ろしい話です」

 アビーは身震いした。いつの間にか、少女たちの取っ組み合いは収まっており、年嵩の少女は、プリンセスの耳元に口を寄せ何事か囁いている。幼い少女はくすくす笑っている。子供に凄惨な話を聞かせないようにしているんだわ、とジェーンは思い、アビーの方に目を向けた。

「それで、どうしてわたしのところへ? そういえば、そちらのお嬢さんがここへ来た理由もまだ聞いていなかったわね」

「それは」アビーは少し口ごもった。「お尋ねしたかったのです」

「何を?」

「あなたは、色々ご存知なんじゃないかと思ったんです、ミス・ジェーン」

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