第16話 眠れる娘

 放課後

 部活の教室

 制服姿の女の子たち

 どうってことない日常の風景


 日常?


 制服というのは、セーラー服だ。土管みたいな、グレーのワンピースではなくて。


 グレーの……土管?


 わたしは混乱している、と彼女は思う。

 なぜ。ここは、わたしの居場所。誰もかれもが同じ平面的な顔をして、黒い髪をわざわざ明るい色に染めて、同じようなメイク術を駆使して、個性を際立たせるどころか皆似たり寄ったりの風貌を獲得しようと争っている。


 そんなこと、当たり前なのに、この違和感はなんだろう。


 学校帰り、彼女は友人たちと別れて、一人で歩いている。

 電柱の陰に隠れるように立っている男がいる。やだ、ヘンタイ? でもとても背が高い。XX人には珍しいくらい、高身長でスタイルがいい。


 XX人? XX人とは?


 その男は腕を組み軽く足を交差させて立っていた。明るい色のスーツ姿だが、ジャケットのラペル(下襟)が幅広でVゾーンが狭い。それでも全体的にゆったりとしたスクエアカットで、折り目のないトラウザーズも彼の長い脚に比較的ゆるくフィットしている。

 蒸気船で乗り込んだ保養地エジプトでも決してジャケットを脱がない上流階級の男が好んで着るような服装、という意見がちらりと彼女の頭をよぎる。彼女にとってはすいぶんと古めかしい型だが、彼のような男ぶりの良い男性が着ていれば、それは古風クラシックでおしゃれということになる。

 歩調をゆっくりにして、男の傍らを通りすぎる。ちらりと横目で盗み見ると、男も彼女の方を見つめていた。視線がかち合った。そして

 心臓が止まりそうになるぐらい、いい男だった。年の頃は二十代後半、高い鼻梁、頬がこけているが、引き締まった体格で弱々しい印象はない。くっきりとした眉の下の瞳は……薄い……グリーンだろうか。あれがカラーコンタクトによるものだったとしても、絶対にXX人ではない(XX人とは?)。


「やあ」


 男が言った。唇がやや薄いが、それは彼の美貌を少しも損ねていない。彼女の心拍数は危険なほど高まり、口の中がからからになった。

「ゲームの進行が少し遅い気がしてね。こうして、個々にハッパをかけにきたわけなんだが」男は周囲を見回して整った眉を顰める。「なんだかごちゃこちゃしたところだなあ」

 気が付けば、娘は男と肩を並べて繁華街を歩いている。すれ違う女たちが皆、彼女の男を物欲しげな顔で見る。


 わたしの男?


「なんでも望みを叶えてやると言っているのに。そう遠慮しないでほしいね」

 深みのあるバリトンに声まで男前だと聞きほれていた彼女は、心臓を鷲掴みにされたかのように、びくんと体を震わせた。


 


「当たり前じゃないか。おれを忘れたなんて言わせない」

 男の大きな手が、彼女の頬にかかった髪をそっと耳にかきあげた。

「さあ、言ってごらん。欲しいものはなんだ」

「わたし――」


 むにゃむにゃと呟いて寝返りを打った東洋の娘にぶつかられ、ジェーンは目を覚ました。アビーの姿はない。


「わたし、わたしは、あなたみたいな彼氏が欲しいってずっと思ってたの!」


 レーコの寝言に、ジェーンは眉を顰めた。夢の中でぐらい幸福でいたっていい。それはまったく構わないのだけど、このベッドに大人二人は狭すぎる。

 ジェーンはそろそろと体を起こした。レーコは満面の笑みを浮かべ目を覚ます気配はない。

 メイドに自分の部屋まで連れて行ってもらおうかと思ったが、ドアがショットガンで吹き飛ばされていることを思い出した。心臓の鼓動が急に早くなり、ジェーンはゆっくりと深く呼吸するよう努めながら、ベッドに横になった。


 どうやら、心臓が悪いらしい。いや、あんなものを見せられたら、どんなに頑丈な心臓だって大打撃を受けるだろう。ましてや、自分は年寄りだ。

 うふふ、あははとレーコが忍び笑いを始めた。ジェーンは眉間の皺をさらに深くして、隣の若い娘の背中を見つめた。一体どんな夢を見ているのか。

 ドアにノックの音。メイドだった。ジェーンはなるべく心を平静に保つよう心掛けながら言う。

「ちょうど良かった。耳栓を持って来てほしいのよ。それから、ハーブティーを」



 ジェーンの部屋(正確にはアビーの部屋)を辞した赤毛の女は、ショットガンを手に屋敷内を探索していた。一体何を探しているのか自分でもよくわからなかった。手品師みたいに熊を出現させたり投げ縄を生き物みたいに操ったりできる男の手から逃れる術が果たしてあるのだろうか。

 それでも彼女は、この忌まわしい屋敷の外へ出たかった。

「なんでも願いを叶えてやろう」

 あの男ならそう言いそうだ。だが、願いを口にした途端、彼女の人生は終わる。おそらく、長く時間をかけた、苦痛に満ちた方法で。


 まっぴらごめんだね。あたしは、欲しい物は自分で手に入れて来たんだ。


 過去はおぼろげな幻のように彼女の脳内をたゆたうていたが、それは汚れた石畳や霧、汚染された空気、そして宿無しの失業者の群――そんな断片的なバックグラウンドに限られていた。それでも、自分は意志の強い女だったに違いないと彼女は思うのだ。

 

 だから、死ねといわれて、はいそうですかってわけにはいかないんだ。


 彼女は、一階をうろついていた。出口を探すなら、それが一番の近道に思えたからだ。

 しかし、ピアノが置かれた部屋のフランス窓と同様に、窓という窓の鍵が固く閉じられ、硝子を割ってもすぐさま元通りになる。外に通じていると思われる扉も同じで、鍵を破壊してもたちどころに修復されてしまい、開けることができない。

 フランス窓をピアノ用のスツールで破壊した時は、大破した窓硝子が修復されても、スツールは外に転がったままだった(先ほど確認したら、スツールはピアノの前に戻されていたが、椅子には土で汚れた跡がわずかに残っていた)。ならば、窓に体当たりして突き破れば庭に出られるはずだが、全身を硝子で切り裂かれ、血を流しながら長々と苦しんで死ぬことになりそうだ。それでは意味がない。

 今にも爆発しそうな怒りを胸に抱え、彼女は目についたドアというドアに片っ端から手を伸ばす。

 カチリ、と、ノブが抵抗なく回転した。扉を押し開けると、まばゆい光に目が眩んだ。

 一瞬、館の外に出たのだと思った。

 だがそれは正確ではないとすぐに気づいた。鬱蒼と茂る植物、湿度の高い熱気が彼女にまとわりついて来るが、天を仰いで見える薄く青い空はと彼女の間には、硝子の天井が横たわっている。

 温室

 背の高い植物の葉のせいで視界が悪いが、四方の壁もガラスで囲われているはずだ。彼女は意を決して一歩踏み出す。フェルトの室内履き越しに、土の感触が伝わってくる。空気は暑く、重い。

 まるで熱帯雨林だ。

 彼女の特徴的な赤毛は、すぐに生い茂った木々の中に埋もれて見えなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る