第18話 グリーンハウス・エフェクト
おぞましい光景に赤毛の女は自分の背中の痛みを忘れた。
「おい――」
「触らない方がいい。その女は、もう手遅れだ」
その声は後方の茂みから聞こえた。
「何を言って」赤毛の女が視線を向けると、そこには巨大なヒグマの顔が覗いていた。
素早く周囲に目を走らせ、地面に放り出されているショットガンに身を躍らせた赤毛に向けて、熊も素早く動いた。
ぐわあおおぅ、と赤毛の女を組み敷いた熊は、既に一人の肉を切り裂き骨を砕いた牙をむき出して咆哮した。が
先人と同じ無残な死に様を覚悟した赤毛の女は、いぶかしげな顔で熊の口の中を覗き込んだ。
顔
熊の口の中に顔がある。陰になってはっきりとは見えないが、皮肉っぽく歪められた薄い唇には見覚えがあった。
「お前!」
怒りに任せて右足で思い切り蹴り上げると、奇しくも巴投げがきれいに決まり、熊の体はくるりと一回転して背中から地面に落ちたが、素早く体を捻って立ち上がった。その動作は、数百キロの重量を感じさせない軽やかさだった。上にのしかかられたときに、ヒグマにしては軽いことを感じ取っていたが、今まじまじと見るその体は、巨大な頭部に不釣り合いなほど痩せて、毛皮がだぶついていた。
「中身は一体どこにやったのさ」
女は怒りで顔を真っ赤にして地面から体を起こしたが、はたと気づいてもう一人の女の姿を探した。
裸の女は今、別の大きなサボテンに背中をこすりつけていた。無数の針が突き刺さった血まみれの顔で天を仰ぎ、口の端から血の混じった涎を垂らしている。朱に染まっているのは顔だけではない。乳房から腹、股間から内腿も――赤毛の女は喉元にせりあがってきた苦い汁を懸命に飲み下した。
「だから、手遅れだと言ったろう。アルカロイド系の毒があって、幻覚や筋弛緩、その他諸々の症状を示した後、ぽっくり死ぬ。正直、こんな生ぬるい死に方でいいのか迷うところだ」
そう言う熊の中の男の声は楽しそうだった。
「あんな風になって、ぽっくりが聞いてあきれるよ」
赤毛の女は地面に唾を吐いて、銃を構えた。
「本人はすこぶる楽しそうじゃないか。あの女の望みだったんだぞ。サボテンは」
熊はおどけた動作で道化のようにジャンプして後ろ足を空中で打ち鳴らしてみせた。
女は確かに恍惚に身をゆだねているように見えなくもない。が、他の部位と同様に顔もサボテンの棘に引き裂かれ皮膚が剥がれ、
赤毛の女は、セイフティを解除し、躊躇いなく引き金を引いた。近距離からであり、一発で仕留めた。女の骸が、くなくなと地面に倒れた。
「あーあ。つくづくお前は余計なことをする。かわりにお前の苦痛を倍増させてやってもいいんだぞ」言葉とは裏腹に、男の声は、やはり楽しげだった。
「ああ、そうそう。この中身ね。夕飯は熊のシチューに熊の串焼き、熊の腸詰めと熊づくしだ。楽しみにしているといい」
赤毛の女が照準を熊に合わせた時には、着ぐるみの姿は忽然と消えていた。それでもしばらく銃を構えたまま立ち尽くする女の耳が、別の叢からの音を捉えた。
「撃たないで」
女の声だった。両手を上げながら姿を現したのは、おどおどした若い女。
「こんなところで何をしている」赤毛の女は息を吐いて銃口を下した。
「あなたが何をしているのか、気になって。わたし、アンディよ」
「後をつけて来たってのかい。気色わるい。お前の名前になんか興味ないね。失せな」
「その人、死んだの」
「頭を吹き飛ばされたら、生きちゃいられないだろうね、普通」
「うわあ」若い女は、赤毛の女の横を素通りして、体中棘だらけで血塗れの全裸の女の数歩手前まで行き、まじまじと眺めた。
「お前、ヘンタイなのかい。気持ち悪いだろう、そんな死体」
その場から立ち去ろうとする赤毛の女の背中に若い女は
「あらっ、大変」と駆け寄った。
「怪我してる。やだ、なにこれ。サボテンの棘? サボテンって、毒のあるものもあるのよ。早く抜かないと」
アルカロイドがどうとか熊男が言っていたことを思い出した赤毛の女は顔をしかめたが「平気だよ」と女の手を振り払った。その途端、世界がぐるりと回転した。
若い女に抱き抱えられ、地面にへたり込んだ己の不甲斐なさに腹を立てた赤毛は若い女の手を振り払おうとするが、うまく体が動かなかった。
「まず、刺さってるのを抜こう。じっとしててね」
背中にぴりっとした痛みが走る。生地を貫通して背中に刺さっていた棘が引き抜かれていく。痛そうに声をあげるのが癪で、唇を真一文字に結んで耐えた。
このぐらい、大したことない。もっとひどい目にあわされたことはいくらでも。
「ああ、服の中にも入り込んでるね。ちょっと上にあげるよ」
「おい」舌まで重く感じられた。背中側からスカートの裾がまくり上げられ、なんとも情けない姿にされたが、抵抗することができない。
「さあ、これで全部抜いたと思う」
さっさと手を放しな、すーすーして仕方ないだろうが。そんな文句も既に口から発することができなくなっていた。舌が膨張している。このまま呼吸ができなくなるのかもしれない。だが頭も痺れているため、不安や恐怖は感じなかった。
生温かく柔らかいものが背中に押し付けられ、吸われる感触。背後の女はぺっと地面に唾を吐くと、また背中に、唇が押し当てら、吸い、吐き出す。棘の刺さった部位から毒を吸い出しているのだと赤毛の女は気付く。
ばかなことを。そんなことをしたら、お前も毒にやられるかもしれないのに。
だが言葉は口から出て来なかった。目を閉じて、されるがままになっていた。女の唇が背中以外にも這い回った。ぬめぬめと生き物のように動き回る舌の感触は、不快ではなかった。頬を手で挟まれ顔を持ち上げられた際に薄目を開けて見えた若い女の顔からは、気弱なおどおどとした表情は消え失せ、目を爛々と輝かせていた。
わたしを守ってほしいの、と若い女は囁いた。そのかわり、あなたの望むことは、なんでもしてあげる。
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