第16話 夜毎に募る ②

 物質と物質の間には、大小の差はあれど、有無の差は無く引力というものが必ず発生する。

 羨ましいくらいに、物理の世界は単純で明確なルールを規定してくれている。

 人と人の間に生まれる力は、必ずしも画一的で不変的なものでは無いらしい。惹かれ、押され、萎縮し、離れたりする。そもそも何の力も生まれないこともある。

 多分江月はそういう心の所作を忌避していたのだろうし、椎本は生まれる力の負の面ばかりを気にしていた。

 アタシは誰かと出会う時、その間に生まれる互いの心の動きを、その機微を、気にしたことは無かった。

 小山内は、アタシとは違う意味で、無関心だった。過去に受けた強すぎる力の影響が、心を固くしていた。

 他人との間に生まれる様々な心の動きの捉え方は人それぞれ違うし、感じ方は生き方によって変化していく。

 果たしてこの出会いは、どのような力を生み出すのだろうか。

 功刀朝水くぬぎあさみと名乗る柊の新しい友人を見た時、不意に、何かが起こるような、そんな不穏な心の動きを感じ取っていた。


「え、朱音先輩と知り合いなんすか?」

 アタシの顔を見るなり立ち上がる少女に、我が家のように寛いでいたナンテンが少し驚いたように反応する。

「あの……っ!」

 ワタワタと財布を取り出しながらアタシの方に詰め寄る彼女は、不機嫌そうに見えるし、気恥ずかしさを誤魔化そうとしているように見える。

 普段は凛然とした性格なのだろうな、とも思う。それだけに、予想外の出来事に慌てふためく彼女の動きはどこかコミカルで微笑を誘うものだった。

「私、誰かから借りを作るの、嫌いなんです!」

 と、財布から取り出した五千円札を叩き付けるように目の前に突き出す。

「じゃ、アタシは借りを返されるのが嫌いだ。五千円はお前にやったんだから、返さなくていいよ」

 と突っぱねると、彼女はいよいよアタシのことを気に食わない人間だと認定したのか、睨みつけるようにアタシを見た。

 半ば揶揄うつもりの言葉だったが、彼女の後ろで柊がアタシを非難するような視線を突き刺してくる。

「分かった、分かったよ。受け取るからそんな睨むな。五千円貰えてラッキーぐらいに思っときゃいいのに」

「それはこちらの言葉です。五千円返して貰えてラッキーって思ってください」

 フン、と鼻を鳴らして言葉を並べ立てる妙に生意気なこの後輩の、跳ねっ返りの強い性格と小柄なアタシよりもさらに小さな体躯が不思議とアタシに関心を抱かせた。

「——アタシは塚本朱音だ。ま、柊の友達ってんなら仲良くしようぜ」

 アタシは靴を脱ぎながら有無を言わさずに自己紹介をする。それも彼女にとっては面白くないらしい。

 後輩であるから自分から——なんて、考えていたのだろうか。クルリ、と背を向けて居間の方へと戻りながら彼女はぶっきらぼうに名乗る。

「功刀朝水です」

 そんなやり取りが面白かったのか、アタシの背後で小山内が、控えめな笑い声をあげている。

「随分と可愛い後輩が出来たね」

「……生意気なだけだろ?」

「そう?塚本はああいう子、好きだと思ったけど」

 例え冗談混じりだとしても、いや。

 冗談にそういうことを混ぜるだけの正常さを、小山内は取り戻しているらしい。

 かつて付き合っていた頃よりも、お互いに交わす言葉の中には愉しげな含みが潜んでいるのは皮肉だとも思う。

「私とは正反対だもん」

 何と答えれば良いのか迷っていると、小山内は聞こえによっては棘のあるアイロニーな発言にも思える言葉を漏らした。

 だが、そこに一切のアタシへの批難の意志は載っていない。心の底から、そう思っているのだと分かるような冗句。

 思わず乾いた笑いが出る。

 そういう負の感情すら精算してしまえるような関係にまで、なってしまったのだな。と、否が応でも突きつけられているのだから。


 七人とはいえ、椎本の部屋で飲み会をするには少々大人数と言わざるを得ない。

 ナンテンは体育会系らしく後先考えずに次々と缶を開けていく。一方で柊は本当に二十歳まで呑まない気らしく、ソフトドリンクを飲みながら白けた視線でそんなナンテンを見ていた。

 江月と椎本と小山内は三人で二年の講義について感想を言い合っているようだ。真面目な功刀はそんな会話を聞きながら何やら頷いたりしている。

(似ているな)

 とは思う。当然、それは柊とだ。

 だが、決定的に異なる部分もある。勝ち気なところだとか、負けず嫌いなところは、マイペースな柊とは真逆だ。

 猫のような吊り目は絶えず視線の先を一切の余暇なく見据えている。

 余裕の無い、というよりも、どこか最後の最後は自分一人の力しか信用出来ないということを悟っているかのような雰囲気だ。

 一定の距離までは容易く近づけるけど、一種のライン以上は誰にも近づけさせない。多分それは、彼女の両親だとしても、そうだろう。

(そういうことが、手に取るように分かってしまうのは)

 多分、小山内と付き合っていた為だろう。小山内との付き合いは、常に小山内の真意を探る作業の繰り返しだったような気がする。

 だからこそ、どういう人間なのか、どういう性格なのか。

 そういうことを窺い知る能力が発達したのかもしれない。

(つっても、想像以上の領域は出ないんだけどな)

 それぞれが会話と酒を交わしている飲み会の様子を眺めながら、缶ビールを傾ける。

 傾けた後、

(そういう人間が心を許すとどうなるんだろうな)

 と脈絡も無く思った。


 そういう人間とは功刀のことだろうか。

 不意に心に浮かんだ純粋な疑問にも近い感想は、想像以上にアタシを混乱させた。

(……小山内の奴が変なこと、言うからだ)

 アタシはそう結論付けて、外の風を浴びようとベランダに缶ビール片手に出てみる。

 アタシはどうしたかったのだろう。

 小山内はどうして欲しかったのだろう。

 終わったことをいつまでも思い悩んでも仕方ないが、先程の小山内の態度が、アタシを再びこの問題へと導いていた。

 もう答えは出ているのかも。なんて、気楽な言葉を心から信じてもみたが、それを無責任と呼ばずして何と言うのか。

 だからいつも同じ場所に戻ってしまう。

「先輩」

 カラカラ、とベランダの戸が開く音がした。

 柊だろうかと振り返ると、そこには意外なことに功刀が居た。

「アタシのこと、苦手だろ?何でわざわざ」

 と突き放してもみるが、我ながら意地の悪い言い方だとも思う。

「言いましたよね?借りを作るの、嫌いなんです」

「五千円なら受け取ったろ?」

「いえ、まだ先輩には借りがありますから」

「……」

 少し頭を捻ってみるが、何も浮かばない。

 功刀の言う、借りとは何だろうか。


「あの時、助けてくれてありがとうございました」


 頭を下げる訳でもない、愛嬌のある言い方でも無い。感謝と言うには、どこか不器用過ぎる程に、棒読みにも近かった。

 だと言うのに、アルコールで僅かに紅潮している頬が、見上げるようにしてこちらを覗く小さな瞳が、或いはもっと他の要因が。

 理由は分からないが、彼女の何かが、私と彼女の間に何かの力を生んでいた。


 心臓が、強く、跳ねた。

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