第18話 泥の鎖 ②
知ると、飢える。
飢えは、人を容易く堕落させる。
飢えと餓えが人の生きる理由だとするのなら、堕落そのものは人間として正しい在り方なのではないだろうか。
アダムと林檎の逸話は、端的にそれを表したようにも思えるし、人は飢えるから望み、餓えるから夢見るというのなら、飢餓とは鎖のようなものだ。
逃れられることの出来ない、それでも柔らかく温い、泥の鎖だ。
アタシはまた一つ、新たな鎖に囚われたらしい。それは誰かと愛し合うということで、それが無くとも生きていけるのは明白なのに、無ければ生きている意味が無くなる程に狂おしい。
いっそ思考を持たない、植物の様に単純で美しい生物だったのなら、と思う。
飢えとは原動力で、餓えとは希望なのかも知れない。
少なくとも、アタシは何かに飢えていて餓えていた。
——一瞬、自分でも淺ましいと思ってしまう悦びがあった。
まだ、アタシと小山内は恋人のようにも見えるのか、と。
赤面するような恥ずかしさがあるが、同時に蒼白してしまう程の厚かましさもあった。
数秒も、空白は無かった。
少しでも逡巡してしまうようなことがあれば、もしかしたら、とも思ったが、小山内は一呼吸程度の隙間のみを置いてから、さらりと答えた。
「昔、ね。もう、別れたんだ」
強がりも後悔も、そこには無い。在るのはからりとした、夏の雲一つない青空のような、奇妙な爽やかさだけだった。
乾いてもいない、湿ってもいない。嫌になるくらいのフラットさだった。
存外、というよりも、どこか恐れていたのだろう。アタシはもう、小山内にとっては他人なのだ。
それを分からせられる声色に、少し視線が揺れそうになるが、アタシは誤魔化すように目を閉じた。
「ま、そーいう訳だ。大学生なんだから、そういうこともあるんだよ」
と、告げる。
功刀はそれでも何処か納得のいっていないような表情をしていた。
本当は、そんな単純な関係じゃないことを、もしかしたら功刀は見透かしているのかもしれない。
結局、変な空気になったサークル室を出たアタシは適当に講義を聞き流してから帰路に着いていると、キャンパスの門を出たところで功刀が見えた。
背の低さは、一種の目印になるらしい。始めは、数人の大学生が子供と話しているかと思ったが、近づいてみると、それは功刀だと分かった。
どうも穏やかな雰囲気では無い。
(絡まれやすいのかな……あいつ)
まぁ、態度も品行方正という訳じゃ無いし、㓛刀の性格が癪に障るって人間もいるだろう。
それに、背が低いというのは無条件に舐められやすい。アタシももう少し背が高ければ、多少は穏やかな性格を手に入れてたのだろうか、とも思う。
「ウチの後輩に何の用だよ」
先日の居酒屋騒ぎとは違って、今度は功刀を取り囲むのは全員女性だった。
喧嘩腰に声を掛けると、茶髪の女性が振り向いてアタシを見下ろす。
「へぇ、アンタが功刀の入ってるお遊びサークルの先輩?」
「なんか棘のある言い方だな……。まぁ、そうだけど」
「朱音先輩……!!」
驚いたような、それとも呆れたような。
どちらともつかない声を功刀は発する。
「朱音……もしかして、塚本朱音?」
功刀の言葉に反応して、女性の一人がアタシの名前を反芻した。顔見知りだろうか、とその女性を見る。
「……功刀、アンタとんでも無い先輩がいるサークルに入ってもんだね」
ソイツはアタシを認識すると、何が面白いのかニヤニヤと笑みを浮かべながら功刀の方を向いた。
「どういうこと……?」
「塚本は中学ん時、クラス全員で一人の女子を虐めてたんだよ。それどころか、その女子の親が死ぬっていう時まで監禁して死に目にも遭わせなかった鬼畜だよ」
「テメェ……同じ中学かよ」
しかし同じクラスでは無いようだ。微妙に捻じ曲がった情報になっている。
とはいえ、あの椎本の事件があった後、週刊誌に取り上げられたことで大騒ぎになった影響は他のクラスの生徒にもあった。
推薦を取り消された生徒もいるらしいし、あの当時はアタシ達のクラス自体が嫌厭されていたのは記憶に新しい。
恨まれても当然と言えば当然か。
「塚本、アンタみたいな最低野郎に功刀は勿体無いんだよ!知らないだろ?オリンピック合宿に選抜される程のスノーボーダーってこと」
「だから……!私はもうスノボー、辞めたんです!いい加減にしてください!」
功刀は叫ぶように言うと、アタシの近くへと走り寄る。
「まぁ、アタシが最低野郎ってのは否定は出来ないけどよ。やりたくねぇって奴を無理矢理スノボーサークルに入れようってのはどうなんだよ?」
「ウチらはちゃんとした部活だよ。それに、功刀が本当にスノボー辞めたってんなら、お遊びのスノボーサークルの新歓コンパなんて行かないだろ」
「あれは、アンタ達がしつこいから……。だから、遊びでやってるサークルに入れば諦めると思って……」
か細い声で功刀は言い訳のように呟く。
それは建前で、本当はまだスノボーに未練があるのではないだろうか、と邪推してしまう。
それでも、功刀はアタシの方に身体を寄せてきた。
それは、アタシを頼っている、ということなのだろう。その事実が、アタシを少し高揚させた。
「なんでもいいけど、功刀は今はアタシの後輩だ。これ以上、ウチの後輩に手を出すなら、アタシは何するか分かんないぞ?」
どうやら、アタシと同じ中学だったらしい女生徒は、本当にアタシが何するのか分からないものだと認識しているらしい。
アタシが強気に出ると、少したじろいでから苛ついた表情を隠そうともせず去っていった。
別にあのイジメに直接加担していた訳じゃ無いんだけど、それでも末恐ろしい様な印象をアタシに抱いているらしい。
(というよりも、あのクラスの生徒全員にかもな)
クラスメイト全員が加害者だったということは、否定はしない。
それを考えると、許すことが出来た椎本は、本当に強い人間なんだな、と改めて思う。
そんなことを考えていると、功刀がアタシの袖を引っ張った。
「災難だったな。今度また絡まれたら電話しろよ?」
「あの……何も訊かないんですか?」
隠していたテスト用紙が親に見つかった様な怯えにも似た表情をしている。
功刀にとっては、そんな表情をしてしまう程に、隠しておきたかったことなのだろう。
「……人間、18まで生きてりゃ色んなこともあるもんさ。功刀も、別にアイツらから逃げる為にウチのサークルに入った訳じゃ無いだろ?」
まぁ、椎本や江月の例もあるし、それでも構わないんだが。
「違います!そんな理由じゃ無いです」
「なら、いいじゃん。功刀こそ、アタシに訊きたいこと、あるだろ?」
それこそ、昔イジメの加害者だったということを知ってしまったからには、思うことがあるだろう。
それを知って、アタシと距離を置きたい、と言われても仕方ないことだ。
アタシは覚悟してからそう言い終えると、功刀は、大きな瞳をアタシに向けた。
「もちろん、ありますよ」
ほら、来てしまった。
だが、心のどこかでホッとしている自分もいた。ようやく、アタシにもあの件での断罪が回ってきた。これで全て許される訳じゃないけど、アタシはアタシを許せるのかもしれない、と。
「なんで、私を助けるんですか?朱音先輩は、何で、私が助けて欲しいって思ってる時に来ちゃうんですか!?」
「はぁ?」
予想と違う言葉にアタシは素っ頓狂な声をあげる。だが、揶揄おうとか、空気を変えようとか、そういう誤魔化しの気配は無い。
本気でアタシに問ているのだと、理解出来る。理解出来てしまう。
「あの人達から逃げたくて朱音先輩のサークルに入った訳じゃ無いです。でも、サークルに入るほどB級映画が好きって程でも無いです」
「……まぁ、でも、講義の合間にサボれる部屋があると便利だしな」
なんて、反射的に思っても無いことを言ってしまう。
何か、嫌な予感がする。
アタシの意思に反して、口の中がカラカラになる。
「馬鹿にしないで下さい!そんなの、私が——」
そんな小さな身体のどこに、そんなエネルギーがあるのだろうか。
呑気にそんなことを思ってしまう。
だが、そう思わせてしまう程に、功刀の語気は強かった。まるで、憎んでいる相手に、その功罪を粛々と叩きつける様に。
「朱音先輩を好きになっちゃったからに決まってるじゃないですか!」
ああ。
また、泥の鎖が一つ。
顔を真っ赤にして、叫ぶ様に告げた彼女を可愛いと思ってしまう事自体が、新しい鎖に囚われた証拠であった。
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