第17話 呪いを謳う ①

 桐谷雫と恋人になったとはいえ、彼女を苦手だと思う意識に変化は無かった。

 妙な話ではあるが、むしろ付き合うことになってから、ますます苦手意識がむくり、と芽生えて頭を起こしたような感じだ。

 苦手だとは感じても、彼女と付き合うことを肯定的に捉えるだけの好意を持っていることが不思議であった。

 要するに、好悪と得手不得手は別種の感情であるらしい。

 下手の横好きなんて言葉がある通り、(対人関係に適した言葉では無いかもしれないが)苦手な部分がある方が、もしかしたら相性は良いのかも知れない。

 とはいえ、桐谷さんという女性と同じ時間を過ごすという事は、私にとっては少なからず面倒だと思う側面があることは事実であった。


「海を見に行こう」

 と、朝一番、おはようの挨拶も無しに桐谷さんがそう提案した。寝起きの頭で、彼女の発言を噛み砕いてから、僅かに閉口してしまう。

 桐谷さんの住むワンルームマンションは、私の住む曙荘と比較するのも烏滸がましい位に立派なものだった。

 彼女自身バイトしているとはいえ、仕送りもそれなりに貰っている様子で、もしかしたら結構裕福な家庭で生まれ育ったのだろうか。

 そんな彼女の部屋からは、付近に高層の建造物が無いため、六階とはいえ眺めは良い。

 目を凝らすと、遥か東の方角に海らしき光景が見える。太陽の光を照り返して、スパンコールのようにキラキラと光っていた。

 桐谷さんはそれを見て、急に海を見に行きたくなったらしい。

「あのー、私今日講義なんですけど」

 と、真っ当な理由に乗り気では無いという意思を乗せて答える。

 だが、桐谷さんはそういう人の心の機微を読み取る能力は低い。或いは、

(敢えて、無視しているのか)

 と感じる。

「講義なんて一回くらいサボっても平気だって。行こうよ、平日なら人も少ないしさ」

 悪びれもせずに、恰もサボる方が健全だとでも言いかねない気軽さで桐谷さんは私の言葉にそう返した。

 肯定と否定もせず、私も桐谷さんの横に並んで歯を磨く。いつの間にか、私の歯磨きのブラシが用意されている事実に少し笑った。


 突拍子も無い桐谷さんの提案は、大抵の場合私にとって魅力的では無く、どちらかと言えば興が乗らないことが多い。こういう嗜好の違いが、彼女を苦手だと感じる所以の一つなのかも知れないが、結局押し切られてしまうという桐谷さんの押しの強さが一番の要因である事は間違いなかった。

 もう何度目なのかも分からなくなってしまった、桐谷さん運転する車の助手席の座り心地は、不思議と悪くは無い。

 白いトップスに黒のレギンスという格好の桐谷さんは、まだ夏が到来していないというのにやけにアクティブな服装だった。

「免許ってどれくらいの時間掛かりました?」

「んー?免許取るの?」

「まぁ、バイト代が貯まれば、ですけど」

「私も幾らか出してやろうか?」

「そこまでしてもらう訳にはいきませんよ」

 桐谷さんは、何となく私が親の援助無しに生きていることに気づいている節がある。

 私の今の住居を見ても驚きはしなかったし、態度には出さないが、そういう所で、気を遣ってくれているのは分かってしまう。

「まー私の場合は参考にならないかもな」

「なんでですか?」

「木乃香は人付き合いがけっこー苦手だろ?私、合宿所で取ってるからさ。知らない人間と二週間も同じ部屋で過ごすのは木乃香には出来ないだろ」

 と、揶揄うように言う。

 当たっているだけにムカっとするが、同時にそこまで私のことを理解しつつある事実が少し気恥ずかしくて、流れる窓外に目を向けた。

 人見知りという訳でも無いし、表面上はそつ無くコミュニケーションを取れていた筈だ。

 ただ心のどこかで、他人という存在を信用していないだけだ。

 多分そういうところを桐谷さんは見抜いたのだろう。

(優里も、知らなかった私の部分を、彼女は気づいている)

 それは、それだけの熱量で私に興味を持ってくれていると考えて良いのだろうか。

(分からないな)

 あれだけ心に刻みつけていた優里という存在が、桐谷さんの前では、異様な程に霞んでいく。

 それは、決してネガティブなことでは無い。そう捉えてしまう自分がいる。

 だけど、

(それじゃ、ダメなんだよね)

 と自戒する。


 観光地という訳でも無いが、砂浜に降りられる海岸に着いたのはレンタカーを借りてから一時間も経たない頃だった。

 いつの間に用意したのか、私の分のビーチサンダルまで購入していた桐谷さんは待ち切れないと言った風に、波打ち際まで走ると寄せてくる波濤の冷たさに喜んでいる。

「まだ冷たいなー。ほら、木乃香も来てみなよ」

 と、手を差し出す。

 私は見るだけでも十分だったのだが、その手を取り同じくハーフパンツから出た脛の辺りまで波飛沫が掛かると思わず笑ってしまった。

 海水浴というのにはまだまだ冷たすぎる水温だったが、何故だかそれが面白かった。

 結局、桐谷雫とはそういう人間なのだ。

 いつもいつも、嫌がる私を無理矢理連れ出すのだが、結局最後の最後に楽しんでしまう私がいる。

 流されてしまえば、楽なのか。

 認めて仕舞えば、終わるのか。


 でもそれは、優里への裏切りと、塚本への侮辱に他ならない。

 それは、分かっている筈なのに。


 随分と、私にとって今の環境は居心地が良いみたいだ。

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