最終話 想い出を彷徨う ①

 忘れてしまえ、というのが、優里の願いだったように思える。

 それを出来なかった自分勝手な祈りを私に託して、彼女は逝ってしまった。

 一年ぶりに顔を出した実家は、相変わらずだった。私を歓迎するでも無く、世間体があるから仕方無く、と言った感じで私をもてなしたが、親子の間にある筈の他愛の無い会話は、やはり無かった。

 多分彼らは、娘である私すら、他人だと思ってるのだろう。あの頃には感じられなかった、余所余所しさのようなものが、今では強く感じられる。

 きっとそれは、桐谷さん——雫さんの、あの人当たりの良さに直に触れてしまった所為なのだろう。

 その感覚が、それまで大して好きでも無かった両親を更に遠ざけた。

 元々、私は彼らと決別するつもりでやってきたのだが、曲がりなりにも私を産み育てたので多少の罪悪感が募るものだと思っていたが、恐ろしいくらいに記憶の中の印象と変わりのなかった両親を見て、それは杞憂だと感じた。

 もし、優里や塚本と歩む未来があったのなら、私はこの差別的で閉鎖的な二人の親を、きっと何処かで許してしまったに違いない。

 あの二人には、そういう潔癖的な清廉さがあった。だが、私は雫さんのような俗的な楽観さに惹かれてしまった。

 どちらが良いとか、そういう話ではない。善とか悪だとか、そういう線引きでもない。

 結果として、私は、もう二度と彼らの目の前に現れる事は無いだろうという密かな決意だけが、ただ清々しかっただけだ。


 過去が辛いのなら、それを曖昧なままに捨て置けば良い。

 未来が怖いのなら、それを考えずに投げ捨てて仕舞えば良い。

 今の幸せだけを、今の楽しさだけを、噛みしめれば、それが一番楽な生き方だ。

 嫌なことから逃げて仕舞えばいい、思い出すのが辛いなら忘れて仕舞えばいい。

 私はそれを選びとった、弱い人間だ。

 だけど、その弱さは、きっと、私にとって必要なことだったんだと、今になって思う。


「雫さ……じゃなくて——雫」

 私の中にあったわだかまりの様なものが無くなったと、察したのか。

 雫は私が実家から戻ってくるなり、下の名前で呼び捨てで呼んで欲しいと伝えた。

 私にあまり望む事をしない彼女にしては珍しいと思った。

 未だ慣れないが、私が彼女の名前を呼ぶ度にほんのりと——それこそ、恋人の私にしか分からないような些細な——喜色を浮かべる雫を見ると、私の方までどこか嬉しくなる。

「ん?」

 私の何も無い部屋は、いつの間にか雫の私物で埋もれていった。

 それはまるで空虚だった私の心が彼女に侵食されているようで、どこか気恥ずかしい。

「私の何処を好きになったの?」

 雫はスマホゲームをしていた指を止めて、私をジイっと見た。

「ん……なんだろうね」

 とぼけたように言った後、スマホから離れた彼女の指で私の鎖骨の辺りを撫でた。

「私さ、あんまり深く考えないから。だって、私今まで男と付き合ったことしかないのに、木乃香のこと好きになっても別に悩まなかったし」

「……私も、同じ、かも」

「えー?正反対でしょ、私達」

 くすくすと笑った雫に、私はつられて笑みを浮かべた様な気がする。

「だって私も、なんで雫を好きになったのか、よく分かんないし」

「あははは、そっか——でも、よかった」

 彼女の指はつつ、と移動して今度は脇腹の辺りを撫でている。擽ったくて身を捩ると、逃さないと言わんばかりに空いていたもう一方の手で私の体を引き寄せた。

「もしさ、木乃香に私の何々が好きだなんて言われたら、きっと私はそれを失わない様にしちゃうから」

「……雫は自由な人だから、私がそんなこと言ったって、気にしないでしょ?」

「自由なのは好きだけどさ、でも木乃香に嫌われるくらいなら、多分私は自由を捨てちゃうと思う。それが、怖いんだよ」

 雫は私を想ってくれてる。

 でもそれじゃ、私は満たされていない。だから、狡い考えが頭を過った時、私は臆面もなくそれを口にした。

「じゃあ、雫のそういう自由なところが、好き」

「——ズルいなぁ。木乃香にそう言われちゃうと、私は不自由になるな。木乃香の傍から、離れられなくなる」

 まるで可愛らしい我儘で困らされている母親の様な笑みを溢した雫は、ゆっくりと身体を動かして私の身体にもたれかかる。

「ねぇ、雫」

 うん?

 と、そのままうたた寝をしてしまおうとしているのか、雫は目を閉じたまま短く返事をした。


「楽しい思い出で埋め尽くしてくれる雫が好き。昔のことを忘れさせてくれる雫が——好き」


 そっか。

 と、深くは訊かずに雫は答えた。


 忘れさせてくれている、なんていう嘘を許してくれる、雫が好きだ。

 いつか本当に、私の旧い過去を忘れる日々が来たら。


 優里、その時は君に話したい事が沢山あるんだ。

 だから——いつか君を忘れる日々を、私は待っている。

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