第5話 故郷は遥か遠く ②

 風の強い日だった。

 防風林の葉擦れの音がやかましく、真っ暗な部屋の中で就寝していた私は、その音に目を覚ました。

 記憶は恐ろしい程に今でもはっきりとしている。

 赤色の光が、磨りガラスの向こう側で明滅していた。葉擦れの音に混じり、俄かに人の声が外から聞こえる。

 時計を見ると、デジタル数字が深夜二時を示している。

 蓮峰村は住宅が密集していない分、深夜の静寂の中では音が反響しやすい。真冬の早朝に除雪機が動き始めると、否が応でも目を覚ましてしまうほどだ。

 何かあったらしい、と勘付いたのは、以前にも似たような経験があったからだ。

 数年前に東京から移住してきた高坂一家の家が全焼した事件があった。特に彼らに落ち度は無かったというのに、村の人々は彼らが東京から来たというだけで忌避し、煙たがっていた。

 そんな中での火災だった。

 四人暮らしだった高坂家は全員が焼死し、火の不始末ということで事件は片付いたが、私は村の誰かが火をつけたのだろうと確信していた。

 今でも、燃え盛る家を見に来た村の大人達の、心底反吐が出るニヤついた表情が忘れられない。

 そういうこともあり、何か村で事件があったのだと確信した。

 胸騒ぎがして、私は寝巻きの上からパーカーを羽織って外へ出る。

 数人の村人達が、田んぼの端に伸びる畦道に集まっていた。

 赤い、何かが見える。蓮峰村の住人達の、あの下卑た笑みが見える。


 ——高校三年生になったばかりの、四月の風の強い日だった。



 一年前の、あの風の強い日のことを思い出したことに、特別なきっかけがあった訳ではない。

 ただ、あの日と同じように、風が強かっただけだ。単純に、それだけだった。

 日常の中にありふれる些細な共通点が、容易く私の全てを変えてしまったあの日を思い出させる。

 思い出す度に、酸っぱい胃酸のような物が喉にせり上がってくるし、涙が瞳の淵にじんわりと染み出してくる。驚く程の穏やかさで心臓は締め付けられていき、二つある私の肺はまるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、不均等に酸素を求めて粗雑な活動に変わってしまう。

 それでも、一言で表すなら辛苦そのものであっても、思い出す度に情けない程の醜態を晒しても。

 私はあの凄惨な光景を、あの風の強い日を、今でもハッキリと思い出せることを誇りに思っている。

 もはや私の人生において、優里が死んだ日を覚えていることと、彼女が確かにこの世界に生きていたこと以外に、誇れるものなど何もないのだから。


「辛気臭い顔してんな。なんかあったか?」

 お隣の椎本さんの様に、優里の写真を現像して遺影を飾ってみようかと思っていると、当たり前の様に塚本が家に上がり込んできた。

 椎元さんの家で夜から宅飲みをする予定なのだけど、少し早く塚本はやって来たようだ。

「そんな顔、してたかな」

 我が家にはテレビもパソコンも無いので、暇な時は大抵大学の図書館で借りた本を読んでいるのだが、今は昔のことを思い出して、少しぼーっとしていた。

 塚本はそんな私の表情を辛気臭いと言った。どうやら、顔に出ていたらしい。

 それを変な笑い顔で誤魔化していると、塚本がコンビニで買って来たらしい缶コーヒーを手渡された。

「そんなに気を遣わなくてもいいのに」

「人ん家行くのに手土産はあった方がいいだろ?つっても、缶コーヒーとコンビニのスイーツだけどな」

 そう言ってコンビニ袋の中から取り出したのはシュークリームが二つ。塚本は無造作に包装から取り出す。

「柊が大の甘党でな。スイーツとか果物とかさ、そういうのを土産にするの癖になってんだよ」

 塚本は言うと、勝手知ったる我が家かのように、私の分のシュークリームを冷蔵庫の中に入れた。

 私が今、シュークリームを食べる余裕が無いということを察したのだろうか。

 私のそういう感情の機微を、塚本は意外なほど正確に察知したということは、特別驚くことでは無かった。

「ま、食べれる時に食べといてくれ」

 粗暴にも思える塚本の言動に騙されやすいが、二ヶ月にも満たない彼女との付き合いの中で、私は理解している。

 塚本は、誰よりも人の心情を理解することに長けている。それを理解した上で寄り添った選択をするかどうかは、完全に塚本の気紛れな気分次第の様にも思える。

 だが、基本的には塚本は人を思いやれる人間だ。彼女がそういう人間であると理解するには、ある程度の親交と時間を要するのだろう。

 多分世間はそういう塚本を、優しいとか親切だとか懇篤だとか評するのだろうと思う。実際、私もそう思うし、気を遣わせない優しさのようなものが、塚本という人間を一際魅力的にしているような気もする。

 だが、小山内木乃香という人間に限っては、彼女の思いやりの様なその優しさは、一種の有害物質だ。

 私の誇りの澱になりかねない、毒だ。

「……そうだね、お腹空いた時のおやつにするよ」

 言いながら、私は受け取った缶コーヒーを喉に通した。苦味の中にある甘味、というよりも甘みの中にある苦味と表現した方が正確な微糖コーヒーは、一年近く前の記憶に引きずられていた頭を正常にしていく。

「そういやさ、小山内がどこの出身なんだ?」

「んー?初めて会ったパン工場の時に、言わなかった?」

 確か東北の田舎だと、説明した気がする。最寄駅からバスで2時間ほど揺られないと辿り着けない場所だと聞いて、塚本が珍しがっていたとあう反応は覚えていた。

「そーじゃなくてさ、村の名前とかさ」

「聞いても分かんないと思うよ?本当に何も無い場所だし。一応、蓮峰村っていう名前だけど」

 特筆する様な特産物がある訳でも、珍しい奇祭がある訳でも無い。本当に何も無い村だ。

 テレビや雑誌で紹介されたことなんて、多分無いだろうし。

「ふーん。確かに聞いたこと無いな」

 塚本は興味の無さそうな返事で返す。わざわざ訊いてきたというのに、興味が無いということはないだろう。

 これも一種の塚本の持つ毒だ。

 こうやって、私の心を解すように、それでいて警戒されないように、私を知ろうとする。

 知られてはいけないことは、沢山ある。

 私の中にある薄暗い感情だとか、拭いきれない過去だとか。

 それを知られて仕舞えば、きっと塚本は私に対して筋違いな親切心を生み出してしまう。

 そこに有るのは、同情だとしても、憐憫だとしても、或いは軽蔑だとしても。

 間違いなく塚本は、私に対して何かを施そうとするだろう。

 ——それは、絶対に避けなくてはいけない未来だ。

「あ、バイトの方はどうだ?」

「塾講師?問題無いよ。良い先輩もいるし、生徒達もみんな良い子だよ」

 煩わしいことは何もない、良い職場だと思う。それなりの責任感があって、それなりのやりがいがあって、それなりの緩みがある。

 時給も良いし、生徒の成績が上がればそれなりに手当もある。

「そりゃ良かった。小山内ってさ、結構不器用に見えるから——安心したよ」

 不器用?

 器用とは言えないけど、少なくともこっちに引っ越して来てからは、それなりに上手く過ごして来たと思ったが、塚本には私が不器用に見えていたのだろうか。

 キョトンとして、塚本の放った予想外の評価に戸惑っていると、悪戯っぽい笑みを浮かべた塚本が指摘する。

「ほら、そうやってすぐ顔に出るところ。小山内はさ、分かりやすいんだよ。上手く隠してるつもりかも知れないけど、何となく昔に辛い過去があったんだろうな、ってアタシにも予測出来るくらいには」


 ——ああ。

 優里にもいつだったか、同じ事で揶揄われたっけ。

 私は嬉しいことや楽しいことは表に出さない癖に、辛いことや悲しいことを隠そうとすればするほど分かり易い——って。

『でも、それは——』

 咄嗟に、そのことを指摘された私は優里に対して否定したが、優里は優しく諭す様に笑った。

『でもそれは、木乃香が私に助けを求めてるって分かってるから。ちょっと酷いかも知れないけど、少しだけ嬉しかったりするんだ』

 記憶がリフレインする。

 綺麗なはずの思い出が、汚れ切ったはずの私の気持ちが。

 混ざり合って、ぐちゃぐちゃになって。

 気持ち悪い位に濁った答えを導き出した。


 ——私は、塚本の助けを求めていた?

 彼女が優しいと知っていて、それを利用しようとしていた?

 無意識のうちに、或いは、無自覚に。

 私がどんな風にこの世界を見ているのか。

 それを知られたくない理由は、優里の為だったのか、私の為だったのか。

 ——それとも、塚本という人間に幻滅されたくないという、浅ましい理由だったのだろうか。

 同情だっていい、憐憫だっていい、軽蔑だっていい。

 だけど、それでも。

「……そんなに、分かりやすい、かな」

「小山内が地元の話をする時は、特にな」


 ——優里を短い永遠の中に刻み続ける為には、私は決して救われてはいけないのだ。

 それを思うと、やはり塚本の優しさは、私にとっては有害でしかない。

 出逢うべきじゃなかったと、どうにもならない後悔すらある。

 遥か遠い故郷で私は救いに飢えていたというのに。出来の悪い寸劇のように、私はそれを拒絶する。

 救いを求める者がいるように、救われないことを求める者もいるのだと、伝えるように。


「でも、塚本には関係無いことだから、気にしないで」


 私は下手な笑顔を浮かべていた。

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