第5話 故郷は遥か遠く ①

 バイト先を塾講師に選んだのには理由があった。

 将来は先生になりたかったからだ。単純で合理的なことこの上ないと思う。

 とはいえ、これは私の夢ではない。

 優里がいつか私に聞かせてくれた、彼女の夢だった。

 ただ生きる。

 それだけのことがどれだけ難しいのか、私は家を飛び出してこの安アパートに辿り着いた時、身に染みてそれを理解した。

 そして、目の前の暮らし以外にも漸く目を向けられる余裕が出来た時に思ったことは、やはり優里という人間が生きていたことを、どれだけ私がこの世界に刻み込めるのかということだった。

 死んでしまった人間はもう生き返らない。

 ボードレールの言うように、死体に流れるのは血ではなく、レテなのだ。忘れ去られる運命しかない。

 だけど私はそれを否定する、忘れないように、忘れてしまわないように、私は優里を恨むし憎む。

 私を置いて一人で逝ってしまったことを恨む。

 無責任に私にあの村で暮らすこと以外の道を採らせたことを憎む。

 そして——私を救ってくれたことを、悼む。

 弔いを続ける限り、忘却はやってこない。

 墓碑に文字を刻んで永遠を保証するように、私は優里の全てを脳に刻みつけて、短い永遠を約束する。

 だから、きっと。

 優里が夢見た将来も、私の夢だと言っていいんだろう。

 滑稽に見えても、痴愚に見えても。

 既に私は、それ以外にこの世界に対して価値を見出せなくなっていた。



 観光資源も無ければ特産品も無い、山間の限界集落であった蓮峰村は、まるで金田一耕助が事件を解決しそうな、寂れた村だった。

 それこそ、ミステリー小説にありがちなクローズドサークルなんてものを作るのは今時は困難だろうけど、あの村だったら直ぐに作れてしまう。

 そんな閉鎖的な蓮峰村の大人達は口を揃えて都会の悪口を言うのがお決まりだった。農協の担当が都市出身だと分かると粗探しするのは当たり前だし、時には決して都会とは言い難い場所の人間であろうと、他所者は全て悪人だとでも思っているのか、排他的な態度を恥じることなく堂々と口汚く罵った。

 だけど、私はこの街に来て、やっぱり村の人々がおかしかったのだと確信した。

 あんな村の人間なんかよりも、ずっとこの街で出会う人々の方が余程暖かく優しいのだから。


「木乃香先生。おーい、木乃香センセーってば」

 塾の子達が私の作った小テストに真剣に取り組んでいるのを眺めながら故郷の村のことを考えていると、どうやらボーッとし過ぎたようで、テストを終えた南山さんが私の肩を揺さぶった。

「もう十五分経ったすよ。テスト用紙回収してくださいよ」

「え?あ、ああ。ごめんなさい。じゃあ、採点するね」

 私の受け持つ授業は世界史だった。国立難関大学を目指す子が入るような塾ではないので、そこまで高いレベルは求められないけど、それでも彼らの今後の人生の一部に左右するというのは、塾講師といえど多少重責にも思えた。

 とはいえ、私はまだ新人なので、任せて貰えるのは中学生のクラスと、地方公立大学志望の一部のクラスだけだ。

 今は、その地方公立大学志望クラスの八名を授業をしており、授業終わりの復習を兼ねた小テストを実施していたところだ。

 採点を終え、全員が今日の授業について問題なく頭に入ったことに安堵する。

 生徒が疎に帰り支度をしているのを眺めながら、私も日報を書いてから今日は上がろうかと思っていると、缶コーヒーがにゅっと目の前に現れた。

「お疲れ様、小山内さん」

 近くの私立大学に通う不破さんが気を利かせて缶コーヒーを差し入れてくれる。短くお礼を返すと、私の席の横に座り込んでこちらを見た。

「どう?慣れてきた?」

「そうですね……私自身が塾に通ったことなんてないので、手探りですけど。何とかやれてます」

 不破さんは物理の授業を受け持っているが、来年からは大学での研究室の活動が忙しくなるから今年で塾講師のバイトは最後だと聞いた。

 そのまま大学院に通うらしい。

 バイトとは思えない彼女の授業の上手さは、四年間やってきた経験がそうさせたのか、それとも何かを教え込む才能があったのか。

 それは分からないが、長けていることがあるというのに、自分のやりたいことの為にあっさりとそれを捨てられる勇敢さは羨ましいとも思えた。

 やりたい事もなく、自分の進むべき道の責任を死んだ優里に押し付けようとしている私とは、正反対だ。

「——ね、このあと時間ある?少し飲みにいきましょうか」

「あ、はい。大丈夫です」


 塚本と酒を飲んだことはあるが、居酒屋に訪れるのは初めてだった。

 思った以上に騒々しいが、何というか活気に溢れていて、多分一人で訪れても寂しさを感じようが無い場所にも思えた。

「小山内さんは、何飲む?」

 不破さんはドリンクメニューを私に渡す。

 大人の女性だと思った。自然とそういう気を利かせられるところもそうだが、眼鏡の奥に見える柔らかな瞳も、薄い上品な化粧も、漂ってくる香水の香りも、全てが大人に思えた。

 たった四年で、私もこういう大人になれているのだろうか、と思うと少し不安だ。

 春用のジャケットの匂いを嗅いでみるが、洗剤の香りしかしない。香水の一つや二つくらい、給料が出たら買っておこうかな。

「えと……あんまり飲んだことは無いんで……どうしようかな」

「そっか、まだ大学一年だもんね。飲み慣れてないか」

 クスクスと笑う不破さんはどこか懐かしむような視線を向ける。彼女にも私のような時期があったのだろうか。

 当然初めては誰にもあるはずだが、不破さんに限っては想像し難い。

「なんかオススメとかありますか?」

「そうね……女の子に飲みやすいのは、カルーアミルクとかピーチウーロンとかかしら。こういうの飲んでおくと、合コンで男子のウケはいいのよ?」

 合コンねぇ……。

 今のところ、恋愛には興味も無いし、優里のことがあるので、多分一生私には縁のない話だ。

 優里が女の子だから、女の子しか好きになれない。そういう類の話では無い。

 多分優里が男の子だったとしても、私は惹かれていた。

 男とか女とか、そういうことではなく。多分私は、もう優里しか好きになれないんだろう。

 それを考えると、不破さんのアドバイスには乾いた笑いしか出てこなかった。

「じゃあ、カルーアミルクから飲んでみます」


 話題は塾の話だった。お互いの共通点がそれしか無いのだから、当然といえば当然だ。

 テストの作り方とか、授業の進め方。バイトの身分で生徒の相談にどこまで応対すればいいのかとか、多くのことを訊いたが、不破さんの飲むお酒がビールからハイボールに変化し、麦焼酎のロックになった辺りになると、自然と仕事の話題から逸れていっていた。

「恋人は?小山内さん、恋人はいないの?」

「春にこっち来てまだ二ヶ月ですよ?そんなの全然いないです」

 カルーアミルクもピーチウーロンもお酒とは思えない程美味しかったが、目の前の不破さんが焼酎をあまりに美味しそうに飲むので同じものを頼んでみたが、私には少し早かったようだ。

 味もそうだが、何より直接ガツンと殴られたかのようなアルコールの強さに、頭がふわふわとし始める。

「そんなの関係ないよ。早い子は入学して一ヶ月で彼氏作るものよ?」

「そういう不破さんはいないんですか?」

「恋人?いたわよ。つい昨日までね。あれだけ、愛佳愛してるーなんて言ってたくせに、この間ゼミの後輩の女の子とホテルに行ったのよ!?ビンタかまして別れてやったばかりなの」

 結構大人しい人だと思っていたが、どうやらそれは少し違うらしい。

 声を荒げる程ではないが、まだその怒りの熱は冷めていないようで、捲し立てるように言い終えると、一気に焼酎を飲み干してから、店員を呼んで同じものを注文した。

 というか、不破さんの下の名前は愛佳というのか。初めて知ったな。

 というか昨日の話なんだ。仕事中はいつも通りに見えたのは、流石だとしか言いようがないな。

 しかし、不破さんにその話を振ったのは失敗だったのかも知れない。

 というのも、そこから一時間弱、延々と不破さんの元恋人に対する愚痴が続いたからだ。


 ◇


 さてどうしたものか。

 高鼾たかいびきという程でも無いが、酔い潰れてすっかり眠り込んでしまった不破さんを置いて帰る訳にもいかず、途方に暮れていた。

 時刻はもう直ぐ日を跨ごうとしている。

 連れ帰ると言っても、不破さんの家を知らないし、私も結構酔いが回っているので、彼女を担ぐというのも危険だ。

 現実逃避という訳じゃないけど、残っていた焼酎を喉に通す。徐々に焼酎の良さが理解できたのかも知れない。

 大人に近づいたような気がして、少し喜んでいると、不破さんのスマホが着信音を鳴らし始めた。

 画面には秋子と表示されている。

 もしかしたら不破さんの友人かも知れないと、一縷の望みをかけて代わりに出てみる。

「あのー、不破さんのバイト先の後輩の小山内と申します」

「あれ?愛佳は?」

「すっかり酔い潰れてしまいまして……。その、不破さんの家も知らないのでどうしたものかと思っていたところなんです」

 合唱で言うところのメゾソプラノボイスとでも言うのだろうか、電話先の人は画面に女性の名前が表示されていなければ、男性か女性か迷ってしまうような中性的な声質だった。

「そっか、ごめんね迷惑かけちゃって。迎えに行くから、どこで飲んでるのか教えてくれるかな?」

「ありがとうごさいます。ええと……場所はですね」

 住所と店の名前を伝えると、秋子さんは直ぐに向かうと告げた。

 実際に姿を現したのは、電話が来てからものの十数分後のことだった。

 ショートヘアースタイルのかっこいい女性だった。声質から想像するイメージ通りの、中性的な服装もしている。

「ゴメンね、小山内さん。愛佳、帰るよ?」

 白い歯を見せて爽やかに笑いかけると、不破さんを支え起こす。

「えー?秋子?なんでここにいるのよ……」

「愛佳が私の話も聞かずに連絡も無視するからだろ」

「浮気した癖に……。何よ、後輩の女の子に手を出しちゃってさ」

 あ、この女性が恋人なんだ。

 驚きはしたが、彼氏と言わずに恋人と言っていた理由が分かった気がして、どこか納得がいった。

「後輩が目の前にいるんだよ?しっかりしてよ」

「あー……えっと、私のことはお気になさらず」

「驚いたよね?えと、そうなんだ、私と愛佳は付き合ってるの」

「別に女性同士だからって、偏見はありませんから安心して下さい。でも、不破さんっていう恋人がいるのに、本当に浮気したんですか?」

 散々不破さんから彼女の悪口を聞かされたのだ、当然第一印象がどんなに良かろうと、私の中の評価結構低い。

「だから勘違いなんだって。ゼミのみんなと旅行した話を勘違いしちゃってさ。話を最後まで聞かずにビンタして飛び出ていったんだよ」

 なるほど。不破さんの早とちりな訳か。

 しかし、あれだけ大人っぽい不破さんでも、恋人が相手だとそんな風になるもんなんだな。

「さて、と……。小山内さんは、ここから一人で帰れる?」

 秋子さんは不破さんを軽々と背負う。線は細いのに筋肉質なようだ。

「お会計、しておくから」

「いえ、半分は私が出します」

「いいよ。愛佳の後輩でしょ?迷惑も掛けたんだし、奢られておきなさい」


 結局、私は居酒屋の代金を支払うことなく、帰宅することになった。

 秋子さんはそのまま不破さんを背負ってタクシーに乗り込んでいったが、それを見送った後、私は酔いに身を任せて家路に着く。

 纏まらない思考が、大人とは何だろうかと考える。

 大人という単語が似ても似つかない塚本の姿が不思議と脳裏に浮かんだのは、きっと酔いのせいだろう。

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