第13話 当たり前の寂寞 ①
心の発するままに、言葉を掬い取る作業を、『詠む』というのなら。
私は自分の心の内すら詠むことの出来ない、不出来な人間だ。
年末の冷えた大気に、ほんの少しだけ口から出た熱を分け与えると白く霧散して消えていった。
代わりに私の身が冷えるということも、冬の厳しい寒さを幾分か暖めることもなく、消えていく。私はこの世界に何の影響も及ぼさない、そういうちっぽけな存在なんだ、ということを知らしめているようで、気分が良い。
そういう、自分を卑下したい気分だったのだ。何者でも無い私は、何者でも無い誰かと、何でも無い世界の中で、ひっそりと消えていくのみだ、と。
そう、呟きたくなるような、夜だった。
代わりに、塚本が気難しそうな顔でマフラーを口元まで上げながら呟いた。
「——どうしたら、お前は優里さんを忘れられる?」
と、何故か不機嫌そうだった。
私は笑った。笑って、答えた。
——酷く普遍的な当たり前さを装って、私は答えた。
たぶん忘れることはできない、と。
◇
「どうしたんすか?なんか小山内、テンション低いっすけど」
と、現代国語を担当している桐谷さんが休憩室で不安気に不破さんに訊いている。
不破さんは苦笑した後に、チラリと私を見た。
視線で私は言ってもいいですよ、と伝えてみるが、それ以前に私の現状を何となく理解している不破さんの目敏さには少し驚いていた。
「恋人と別れたみたいよ。ね、小山内さん」
「ええと……まぁ、そんなところです。私が悪いんで、何も文句は言えないんですけど」
大晦日の数日前。
私は塚本に別れを切り出された。理由はなんてことないことだった。
優里の代わりが、辛い、と吐露してくれた。そこで、私は塚本のままでもいいと、私は塚本が好きだと、そういう類の答えを返せたらどんなに良かったのだろう。
だが、私には嘘がつけなかった。私は塚本というフィルターを通して間違いなく優里を見ていたし、満たされない気持ちを騙し続けるために、塚本を利用していたのも間違いない。
果たして私は、どんな反応を示したんだろうか。
目を潤ませていたのだろうか、顔色を青くしていただろうか。
なんて、そんな都合の良い身体の構造はしていない。多分恐ろしく冷たい反応だったに違いない。
「そうかそうか。可哀想な小山内。ようし、これから飲みに行こうか」
と、どこか楽しげに先輩風を吹かせる桐谷さんは私の肩を強引に組んだ。
「ちょっと、桐谷。彼氏居ない仲間が増えたからって喜ばないの」
と、呆れたように不破さんは窘めるが、今の私に、底抜けに明るくて無責任な桐谷さんの態度はとても嬉しかったりする。
「じゃあ、桐谷さんの奢りで」
と、私は笑顔を絞り出した。
手の中に一つ。
或いは二つ。
後悔のようなものが残っていればいいのに、と思ってしまった。
「不破さん。モテるんですから男を紹介して下さいよ。可愛い後輩が二人も独り身なんすよ?可哀想だと思いません?」
と、ハイボール二杯で早くもウザ絡みを始めた桐谷さんは、不破さんを標的にしている。そんな様子を横目に私は熱燗を流し込む。ほんの一年前は、酒の飲み方なんて一切知らなかったのに、不思議なものだな、と感慨深く考えてしまうのは、まだ新年が明けて日が経っていないからなのだろうか。
「で、小山内よぉ。アンタは何で振られたんだ?お姉さんに言ってみろよ」
のらりくらりと躱わす不破さんに飽きたのか、今度は私に標的を変える桐谷さんに、何と答えたものかと少し逡巡する。
「あー……えっと、元カレと比較し過ぎた?って感じですかねぇ」
と、微妙に嘘と真実を混ぜながら答える。
「あーそりゃダメだな。やっちゃダメだ。人にやられて嫌なことを他人にやるな、これ常識だぞ?」
「……孔子曰くってやつですか?」
「流石世界史担当、詳しいじゃん。そうそう、それだよ、それ」
と、ネタが通じたことが嬉しいのか、上機嫌に頷く桐谷さんを見て、少し顔を綻ばせる。
「で、桐谷さん。今日はペース早くないですか?」
「ああ?そりゃあれだよ、年明けて受験シーズンになったんだ。私達も試験があるし、何より教え子達の追い込みの時期だからな。小山内、覚悟しろよ?今日を逃すと暫く飲みに行けないぞ?」
と、あまり酒に強く無いはずの桐谷さんは杯を傾ける。恐らく不破さんもそれを覚悟しているようで、多少無茶な飲み方をしている桐谷さんを窘めることもせず、それどころか自身もどんどんグラスを増やしていく始末だった。
結局、泥酔した不破さんはいつかの様に、秋子さんが連れていった。
桐谷さんは足元は覚束ないが、どうにかこうにか歩けるといった状態だった。
「大丈夫ですか?」
「ん?大丈夫大丈夫」
「家、何処でしたっけ?」
と聞くと、結構遠い駅名が返ってくる。こんな状態の桐谷さんを一人で帰すのもどうかと思い、はぁ、ため息を吐く。
「私の家で休みます?」
「んー?いいよいいよ、ほら、あそこ泊まろうぜ」
と、指差したのは、いつか塚本と泊まったこともある、ラブホテルであった。看板には、「女子会プラン」という文字が怪しさを掻き消すように大きく書いてある。
多分桐本さんは他意は無く、純粋に私を同性の後輩と見ているからこそ、気軽にそこで休憩しようと提案したのだろう。
一瞬躊躇ったが、既にフラフラとホテルへと向かう桐谷さんを見て、仕方なく後をついていく。
広々としたベッドや怪しげな照明の部屋に、酔った桐谷さんはテンションが高くなり、無意味に笑っていたが、私がシャワーを終えた頃には、寝息を立てていた。
塚本にも、優里にも似ていない、先輩だ。
寂しくなったんだ。当たり前に、私も。
厚顔無恥と罵ってくれてもいい、羞恥心を翫んでいると面罵してくれたっていい。
呼吸に合わせて上下する胸元に手を伸ばす。
寂しいんだ、と。
アルコールで痺れた頭が、さもその理由が正当であるかのように訴えかける。
歳上だから、という訳じゃ無いが、豊満な胸部は私のとも、塚本のものとも違う、不思議な弾力があった。
いつも騒がしい桐谷さんがこうも大人しいのは、不思議だ。
どんな手段で起こしてみようか、と顔を近づける。
もう少して唇が重なるかというタイミングで、サイドテーブルに置きっぱなしだったスマホが震える。
その突如訪れた現実に、身体を仰け反らせて、慌ててスマホを見た。
秋子さんからのメッセージで、そこには無事に帰れたから心配する内容が書かれていた。
「大丈夫です」
と短く返して、スマホを元の場所に戻す。
先程まで私の脳内を支配していた何者かは何処かへと立ち去ったようだ。
それが何者でもなく、紛れもなく私自身だったということをとっくに分かっていた。
「何、してるんだろ……私」
自嘲すら出てこない闇の中で、私は身体を丸めて、睡魔が迎えにくるのをしばし待つ事にした。
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