第13話 当たり前の寂寞 ②

 少しだけ、夜が長く感じる様になった。

 何も、それは季節が冬であるという当たり前の答えだけが原因では無いのだろう。

 乾いた唇が、僅かに湿る。琥珀色の液体が、脳幹の奥、もしかしたらそこに心とやらがあるのではないだろうか、と思われする様な部分を痺れさせる。

 隣室の奇妙な——そして、痛む程の優しさを持つ——二人の姉妹は、ここ最近静かだ。

 どうやら、妹の方の柊ちゃんが受験シーズンということもあり、椎本さんは邪魔にならない様になるべく家を空けるようにしているらしい。

 というのも、たまたまキャンパスで顔を合わせた時に、

「私は柊に勉強を教えられる程、頭良く無いからさ」

 と、自嘲するように笑っていた。

 塾や家庭教師に割くほどのお金の余裕は無いので、柊ちゃんは自習だけで何とかしようとしているらしい。

 同じ、アパートで。

 同じようにお互い一人だと言うのに、随分と私とは違う。

 柊ちゃんは、純粋なまでに知識を欲している。彼女の態度を見ると、良い会社に入って生活を楽にしたい、とか、そういう即物的な理由があるとはとても思えなかった。

 いや、多分にそういう理由もあるのだろうけど。

 柊ちゃんは、何かを知るということが、そういうことに何よりも価値を見出すことのできる人のような気がする。

 もしかしたら、案外、学者だとかそういうアカデミックな仕事を選んでしまいそうな。そういう思惟を出来る子のような。

 一方で私といえば、テレビから垂れ流される何が面白いのかも分からないバラエティ番組を見ながら、アルコールにしがみついている。

 出演者が何か面白いこと言うと、ここが笑うところですよ、と教えてくれる番組の指示通りに小さな笑みを溢すだけの、下らない作業を続けている。


 その思いつきに、理由を問うならば。

 きっと建前とかは無かったのだろうと思う。

 誰かに優しくするのは、きっと私が誰かに優しくされたいからだ。

 もしそれを肯定するのなら、無償の見返りを求めない優しさというものと比較してあまりに卑しくも思えてしまうが、どこまでも自分という人間の浅ましさを知り尽くしている私にとってはあまり関係の無い倫理観のようにも思えた。

 バイトで使う鞄をそのまま持って、隣室の呼び鈴を鳴らすと、直ぐに柊ちゃんが扉を開けた。

「あれ、小山内さん。どうしました?」

「受験勉強、頑張ってるんでしょ?ほら、私も一応塾の教師だからさ、手伝ってあげようかなって」

 と、笑い掛けると、柊ちゃんはその提案が意外だったのか、少し顔を赤らめて短く感謝を告げた。

「とは言っても、教えられるのは日本史と世界史だけど。柊ちゃんは選択は日本史だっけ?」

「はい。丁度日本史の勉強していたところだったので助かります。どうしても、近代史が苦手で」

 と、今しがた解いていたらしい問題集を見る。

 眺めていくと、一つ一つの知識としては問題無さそうだが、資料の読み取り問題や時代の並び替え問題となると少し怪しい。

 とは言っても、私や椎本さんの通う大学が志望大学なら問題の無いレベルにも思えるが。

「内閣史に重点を絞って覚えた方がいいかもね。どの政策がどの時代のものか——って感じに。政策だけ単語で覚えても、前後が分かりにくくなるから気をつけて」

「あ、はい。えと、そうしてみます。ありがとうございます」

「じゃ、これ解いてみて。内閣史を纏めたテストだから」

 と、塾で使用したテスト用紙を取り出す。

 柊ちゃんは直ぐに集中してテスト用紙と向き合う。

 再び静寂が訪れた。

 鉛筆を走らせる音が心地良い。


 その後、柊ちゃんに近代史を中心に勉強を見てあげていると、いつの間にか二時間ほど経ってしまった。時計を見ると、日を跨ぎそうだ。

 柊ちゃんは、知識としての下地は十分にあるので、彼女から来る質問は油断すると私も口を詰まらせてしまいそうな鋭いものが多かった。

 私にとっても良い勉強になったな、と思っていると、少し控え目な声で柊ちゃんは訊いた。

「あの……朱音先輩と別れたって本当ですか?」

「うーん……そうだね。本当だよ」

 何と答えたものか、と思いながら答えると実にふわっとした返答になってしまう。

 柊ちゃんにとっては、どうやら私と塚本が別れたことが意外だった様だ。どこか、言葉の端々に、それを否定したいような気分が紛れ込んでいる。

「振られちゃった、のかな。全部、私が悪いんだけどさ」

 当たり前の結末だ。

 私は塚本に昔好きだった人の影を重ね続けた。それが塚本を傷つけているということも、悩ませているということも知っていたのに。

 私は自分のことのみを考えていた。

「……お二人の間に何があったのか分からないですけど、もし何処かに、ほんの少しだけでも、気のせいの様に思えても、好きだって気持ちがあるなら、ヨリを戻した方がいいですよ」

「それって、柊ちゃんの経験談?」

「ま、そんな感じです。人って、自分のことを案外理解出来ていないんですよ。一番本能に近い部分では好きだと思っているのに、理屈だとか拘りがそれを見えなくするなんてこと、よくありますから。私も、そうやって自分の気持ちに長らく気づかなかった人を一人知ってます」

 どうやら、柊ちゃんは一旦勉強の方は休憩するらしい。腰を上げて、台所でお茶を淹れ始めた。

 そんな作業をしながらも、そんな彼女の人生観のような言葉を口にする柊ちゃんの表情は見えない。

「もし一片でも、後悔する予感があるのなら、少し考え直してみて下さい」

「でも、振られたのは、私の方なんだよね」

「……朱音先輩は、多分まだ、貴女のこと好きですよ」

 果たしてそんなことがあるのだろうか、と自問する。

 もしかしたら、とか、そういう気分の良くなる言葉を用いずとも、恐らくまだ塚本は私のことを好いてくれている、と分かる。

 それは自惚れとかでは無く——。


「それに、私は、二人が好きですから。幸せになって欲しいんですよ」

 柊ちゃんの言葉には、幼過ぎる程に、頑迷な願いが篭っている。

 それを素直に受け入れられほど、私は綺麗な人間ではなかった。

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