第3話 それもひとつの ①

 冷え切った身体で浸かる温泉のように、或いは、疲れ切った身体で倒れ込む布団のように。

 苦しければ苦しい程、辛ければ辛い程、死ぬ瞬間は心地よく幸福なのだろう。

 そういうことを心のどこかで分かっているのに、目の前の苦しみから逃げ出して来た私は、きっと一生幸せを理解できないのかもしれない。

 そういう半ば宗教のような考えを信仰しながらも、辛い過去から抜け出せずにいる私は、きっと一生、過去を引き摺って生きていくのだろう。

 そんな予感めいた後悔が浮き上がるが、あの耐え難い故郷の陰鬱さを考えると最善ではないけど逃げ出したのは必然的であったのだという諦めだけが、私の慰めになっていた。

 あんな場所、壊れてしまえ。

 あんな人達は、皆不幸になってしまえ。

 私達を追い詰めたこんな世界は、滅んでしまえ。

 呪いの様な祈りと祈りの様な願いは、虚しく心の中で反響するだけだった。

 忘れられる日がいつか来るのだろうか。忘れてしまう日が来てしまうのだろうか。

 きっと優里なら、

「とっとと忘れてしまえ」

 なんて言って、私をもっと楽しい場所へと連れ出してくれるのだろうな。



 私の華奢な身体でも勢いつけてぶつかれば壊れてしまいそうな玄関の扉を開けると、軋んだ耳障りな音が響いた。

 この安アパートの部屋に幾つか不満はあるけど、一番は扉の開閉時に響くこの高音だった。

 とはいえ概ねこの部屋——というより、こんな安アパートに住まわざるを得ない環境は気に入っていた。

 なんというか、自分自身の力で生きている感覚が、故郷であるあの閉鎖的な村から抜け出したといらう実感を強めてくれるのだ。

 だから、そんな不満すらも少し嬉しい。

 そんなタイミングでスマホが通知音を鳴らした。

 差出人は塚本で、隣で鍋をしてるから食いに来いとのことらしい。どうやら扉の音が隣室まで響いた為に帰宅したのが分かったらしい。

 深夜や朝早くはもう少し気をつけよう。と、思いつつ少し逡巡する。

 一晩一緒にバイトをした塚本は兎も角、椎本さんや柊ちゃんと鍋を囲むのはまだ少し気が引けるららら。

 だが、正直鍋はありがたいし、今後隣で暮らすのなら、ここで断った方が気まずそうだ。

 取り敢えず返事をしてから、シャワーを浴びて着替えてから向かうことにした。



「お邪魔します」

 控えめな声で隣室の扉を開けると、甲斐甲斐しく柊ちゃんが出迎えてくれた。

「すいません、朱音先輩、強引でしょう?」

「いや、一人でこっちに来てるからね。少し心細かったし、むしろありがたいかな」

「それなら良いんですが……。嫌ならちゃんと断らないとダメですよ。さ、座って下さい」

 ありがたい、という気持ちは本当だった。私の故郷にはいないタイプの塚本は、私にとって新鮮で見ていて気持ちの良い性格だった。

 いや、近しい人は居たには居たか。優里に少しだけ、塚本は似ているのかも知れない。

「お疲れ、小山内」

「……誘ってくれてありがと。椎本さんも、ご馳走してくれてありがとうね」

「そんなに畏まらないでいいよ?ほら、塚本から聞いたけど、来週から同じ大学に通うんだし」

「そうだね。うん、じゃあお言葉に甘えて」

 腰を下ろすと、柊ちゃんがいそいそと灰汁取りを始める。それどころか、私達の小皿に鍋をよそったり、お茶を汲んだりしている。

 なんて出来た妹なのだろうか。

「働き者だね、柊ちゃん」

 茶碗を受け取ったついでに、何気なく褒めてみると、実際の年齢よりも幾ばくか幼く見えるような可愛らしい笑みを浮かべる。

「姉さん達の世話を出来るのが、嬉しいんです」

 含みのある言葉のような気がした。

 それはまるで何か理由があって、複雑な事情があるような。曖昧ながらも、そんな印象を受ける。

「——さて、折角大学生になるってのに、ただの鍋だけじゃ味気ないだろ?」

 柊ちゃんの言葉の意味。

 それを深く考えるよりも先に、話題を変えるように塚本はテーブルの上にジュースのようなデザインをした缶を置いた。

 聞かずとも、流石の私でもそれが酒であることは分かる。

「ちょっと塚本!そんなの買ってたの?」

「大学生になったら酒を飲むくらい誰でもするだろ?ほら、いきなり飲んでぶっ倒れるよりはさ、予め自分が飲める方なのか位は知っておきたいじゃん」

「……流石に酔っ払いを介抱する気はありませんよ?」

 冷ややかな視線を柊ちゃんは送るが、お構いなしに塚本はプルタブを開けて、勢いよく飲み始める。

「うーん、マジでジュースみたいだな」

「全く……こんなことなら江月の家に泊まればよかったなぁ」

 椎本さんも、そんな文句を言いながら飲み始める。

 そんな様子を見て、何となく二人の関係性が窺い知れる。何だかんだ言いながらも、椎本さんは塚本のやることに付き合ってあげるような、悪友にも似た間柄なんだろう。

 もっとも、どうやら二人の間には良く話に出てくる江月さんとやらも親密に関わってくるみたいだ。

(——で、その江月さんとやらは、柊ちゃんのもう一人のお姉さんらしいけど……)

 イマイチそこら辺の事情が掴めないが、まぁその内分かるだろう。

「ほら、小山内も飲んでみろよ?」

「——うん、じゃあ頂くね」

 受け取った缶チューハイを傾ける。

 仄かな苦味こそあるが、殆ど甘いジュースのようなものだった。

 想像していたよりも遥かに飲み易く、その僅かに残る鼻に抜けていく苦味すらも、どこか美味しく感じてしまう。

「柊は飲んじゃダメだよ?」

「姉さんも飲んだらいけない歳だと思うんですけど……。まぁ、私は興味無いのでご自由に」

 夜勤のバイトと引越し作業のバイトで疲れ切った身体に、温かい鍋と甘いお酒は言葉通り染み渡っていくようだ。

 鼻の頭がじんわりと熱を持っているが、ふわふわとした幸福感に包まれる。

 鍋を囲んだ私は、彼女達と出会って数日しか経っていないとは思えない程、多くの言葉を交わした気がする。

 他愛もない話だった気もするし、それなりに重い身の上話だった気もする。

 成る程、これが酔うということなのか。それを自覚した時には、座っていた座布団を枕にして、今にも意識を手放そうとしていた。



 ◇


「おや、明日の朝まで寝てるかと思いました」

 目を開けると、柊ちゃんは鍋の後片付けを終えたようで、すっかり綺麗になった座卓の上に勉強道具を広げていた。

 塚本も椎本さんも、私と同じように寝入ってしまったようだ。

「……ごめんね、柊ちゃん。片付けさせちゃって」

「まぁ、この二人はなんだかんだウマが合いますから。朱音先輩の碌でもない思いつきに、楓姉さんは意外と良く付き合うんですよね」

「椎本さんは……もっと、なんていうのかな、クールな人だと思ってた」

 何より顔立ちや、立居振る舞いがそういう印象を強めていた。

 物怖じしないというよりも、動じないという方がピンとくるような。そんな言葉遊びみたいな表現になってしまうが、つまるところ、怜悧的に見えたのだ。

「ねぇ小山内さん、少し不思議に思ったでしょ?」

「えと……なにが?」

「私と楓姉さんと若菜姉さんの関係。姉妹だと言っているのにそれぞれ苗字が異なるとか、若菜姉さんだけ別の場所に住んでいるとか」

「気にならないと言えば、嘘になるかも。あ、でも無理に聞き出そうとは思ってないよ。人にはそれぞれ事情があるんだろうし」

 複雑であるということは、おいそれと他人に話したくない事情であるのと同義だ。

 だからこそ、それを訊くのは無粋だし、無遠慮だろう。

「別に隠してる訳では無いんですけど、積極的に話すようなことでも無いんですよ。でも、朱音先輩の様子を見たら、話しておかなきゃなぁって」

 ——多分、これは私にではなく、塚本に対する柊ちゃんの優しさなのだろう。

 言葉を選びながら話す彼女を見て、何となくそれを思った。

「薄々気付いていたと思うんですけど、私と楓姉さんと若菜姉さんは、苗字が異なります。けど、私にとって二人は姉なんですよ。端的に言うと、私は楓姉さんの父親と若菜姉さんの母親が不倫して出来た子供なんです。我ながら出来の悪い昼ドラみたいな展開だな、とは思いますけどね」

「そう、なんだ。それで、今は二人で暮らしてるんだ」

 色々思うことはあった、その不倫した両親はどうしているのか、とか。そんな関係性なのに、とてもそうは思えないほど仲が良く見えるのは何故だろうとか。

 でもこれは、デリケートな部分なのだろう。だから、当たり障りの無い返事しか出来ずにいる。もっと会話が上手なら、もう少し気の利いた返事を返せたのかもしれない。

「急にこんなこと聞かされても困りますよね。でも、知っておいて欲しかったんです。私の、我儘みたいなものですから」

 柊ちゃんはそう言って笑いかけると、深く眠り続ける二人に毛布を掛け直した。



 私はかつて——もしかしたら今でもまだ、誰も彼も皆等しく不幸になって仕舞えばいい、と思っていた。

 だけど、もしかしたら。

 等しく誰もが不幸であって、それを乗り越えられた人だけが、幸福に辿り着けるのかもしれない。私にしては珍しく、そんな希望的観測のような可能性を、柊ちゃんの姿を見て感じていた。

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