第2話 償いに触れる
「全く……今日は若菜姉さんの家に行っていたから良かったものの、若菜姉さんが泊まりに来ていたら大変なことになってましたよ」
小山内と別れ、椎本の部屋に入るが、柊はぷりぷりとまだ少しご機嫌斜めな様子だった。
「……大変なことって?ははっ、ませてるな」
「同じ様な体型の癖に子供扱いしないで下さい」
「江月に今日のバイト誘ったんだけど、椎本が来るからって断られたんだよ。だから今日は柊しか居ないって知ってたぞ」
流石にあの二人がこの家であれやこれをしている可能性がある限り、アタシだって無思慮に訪ねたりはしない。
まぁ、揶揄う位はするかもしれないけど。
「……ま、パンは正直ありがたいです。楓姉さんも、受験でつい最近までバイト出来ませんでしたから」
「感謝しろよ?で、小山内とは結構話したりしてるのか?」
偶々バイトで一緒になった小山内木乃香のことを思い出す。よく笑うし、人当たりも良いし、何より聴き上手な女性だけど、時折り見せる陰のある表情が気になっていた。
両親のいない椎本家は別にして、県外からわざわざ進学したというのに、こんなボロアパートを選ぶ様な経済状況と何か関係があるのだろうか。
家賃は二万と聞いているが、それにしたって小山内の話を聞く限りでは、生活必需品すらバイト代を貯めて少しずつ買い集めている状況なのだという。
普通、その程度なら親が支援してくれる様な気もするが。
(まぁ、そう思ってしまうのは、アタシが相当恵まれた家庭環境にあるからなんだろうけどな)
あまり人様の家庭に口を出すつもりは無い。多分、両親が厳しいとか、そういうことなのだろう。
「小山内さんですか?うーん、今のところあまり会話はしてませんが、物音も煩くないですし、隣人としては良い方だと思いますよ。物腰も柔らかいですし」
引っ越してきて一週間やそこらじゃ、付き合いもそんなものだろう。
そんなことを思っていると、隣の部屋から衣擦れの音がする。小山内が寝巻きに着替えているのだろう。
しかし、着替えの音すら聞こえるなんて、相当壁は薄いんだろうな。
苦笑しつつ敷かれていた布団の上に寝転がる。
「あ、私の布団ですよ、それ。客用布団出しますから待ってて下さい」
「んなモン態々出さなくていいよ。じゃ、お休み」
なんだか柊の小言が聞こえてくるが、疲労した身体と徹夜明けの脳に暖かい布団は殺人級の気持ち良さがある。その気持ち良さに、意識がすぐに持っていかれる。
呆れた様な、諦めた様な柊の言葉にならない短い声を最後に、アタシは夢の世界に誘われて行った。
アタシは——卑怯者だ。
中学の時、椎本が虐められているのを知っていたのに、自分には関係無いと素知らぬ態度をとっていた。
どんな理由があろうと、虐める側が悪いに決まっているのに。私は世の中を知ったフリをして、虐められる方が悪いんだと決めつけていた。
アタシとしては、もっと楽しい学生生活を送りたかった。だというのに、椎本一人が輪を乱して空気を悪くしているとさえ、思っていたのだ。
上手く立ち回れば良いのに、そんなことすら考えていた様な気がする。
ある日、椎本が突然学校に来なくなった。とうとう諦めたのか、と思ったがどうやら母が亡くなって忌引きで休んでいるのだと知ったのはクラスメイトの噂話からだった。
どこから広まった話なのか、出処は知らないし、知る必要もないけど、母子家庭の椎元が母を亡くしたという情報を聞いて、それまで私は彼女のことを見下してすらいたというのに、同情した。
そして、そんな同情すらしてしまう自分の愚かさを嫌悪した。
多分クラスメイトの誰もが、椎本がそこまで凄惨な家庭環境に身を置いているとは知らなかったのだろう。それ故の、自己の罪深さから眼を逸らす為の、弾劾があった。
彼女を直接的に虐めていたのは、精々三、四人で、後は遠巻きに眺めるだけであったが、その直接的な虐めの犯人をクラス全体で弾劾しなければ、私達も同罪になってしまう様な、そんな雰囲気が教室を取り巻いていたのだ。
疑心暗鬼だけが渦巻く教室で最も卑怯者なのは、アタシに違いない。
そういう集団心理の様なものすら私は嫌って、そのイザコザすらも素知らぬフリを続けていたのだから。アタシは第三者だと、どちらの肩入れもしないし、どちらかを責め立てることもない。
中立者の様に振る舞って、アタシは、怯えながら、過ごしてきた。
だというのに。
心に泥濘のような偏屈な自尊心だけが残っていて、それがアタシを醜くしている様な気がした。
もしかしたら、入学して江月と仲良くなったのは、彼女に椎本の影を重ねたのかもしれないし、高校に入って椎本のことを気にかけていたのも彼女に対する罪悪感からだったのかもしらない。
そう思うと惨めで、滑稽で、卑しいと思う。
終わってしまった罪に対して贖罪の術は無いのだと悟った頃には、もう何もかも手遅れだった。
◇
「あ、起きた」
目を覚ますと、ワイドショーを見ながら煎餅を頬張っている椎本の姿が目に入った。
受験の為に配達ピザ屋のバイトを辞めた椎本は、春休みの間は短期バイトに集中すると言っていたが、どうやら今日は暇なようだ。
「あれ……?ナンテンが来るって柊が言ってだと思うんだが」
あの騒がしい後輩が来るなら自然と昼前に目が覚めるだろうと踏んでいたが、二人の姿が見えない。
「あの二人なら私と入れ違いで遊びに出ていったよ」
「ふぅん……」
欠伸を噛み締めてスマホを見る。午後二時ということは九時間近くも眠りこけていたらしい。
「塚本、隣の小山内さんとバイトしてたんだって?」
「たまたまな。結構いいやつだったぞ。そういや小山内も春から千倉大学だってさ。アタシと同じ経済学部」
矢嶋は別の大学に進学したし、椎本と江月も別の学部なので、さてどうしたものかと思っていたが、取り敢えず友人が一人見つかって安心だ。
「椎本、今暇してんの?」
「んー?まぁ夕方までは暇だね。晩御飯の準備に買い物には行きたいけど」
ノロノロと寝起きの頭で台所の流し台へと向かう。椎本家を訪れる客は多く、自然と生活に必要なものは家主の断りなく増え続けていたりする。
洗面台代わりにもなっている流し台の上の棚には、色々な化粧品や衛生用品が置かれているが、基本的には江月がこの家に泊まりに来る人が多いのを感じて揃えた物だ。
アタシ用の歯ブラシがあるのも、少し面白い。
「あー寝過ぎて頭痛ぇ……」
「そういえば、そろそろ長期バイト探そうと思ってるんだけどさ、なんかいいのない?」
「長期ねぇ……アタシも探してるところなんだよなぁ」
受験も終わったし、そろそろ定期的に働けるバイト先を見つけたいのは、多分みんな同じだろう。
スマホで少し検索してみるか、と取り出したところで、隣の部屋から扉を開く音が聞こえた。蝶番が錆びているのだろうか、金属が軋むような高音と共に、足音が聞こえる。
「……小山内の奴、起きたのかな?」
挨拶でもしてやろうかと、扉を開ける。すると、ジャージ姿の小山内がどこかへ向かおうとしているのが見えた。
「あ、おはよう、塚元」
「そんな格好して、ジョギングでもすんのか?」
「いや、これから引越しのバイトだよ。じゃ、行ってくるね」
言うなり小走りで出かける小山内を見て、アタシは何を思ったか。
普通なら勤労少女だなぁ、と感心するところだろう。
しかし、何となくアタシの中に生まれた感情はそんなものじゃなかった。
「あれ?小山内さん、夜勤明けでもうバイト行ったの?」
椎本は驚いたように言うと、思案顔をした。
「……アイツ、大変そうだな」
「そりゃ、私が言えたことじゃないけど、こんな安アパートに住む女の子なんて、大なり小なりの事情があると思うな」
——大変だなぁ、と心配するのは簡単なことだ。気持ちだけなら、感情だけなら、何を差し出すこともないから。
「……やっぱ、塚本は、塚本だね」
「何言ってんだ?」
「何でもないよ。それよりさ、駅前でバイト雑誌買いに行くから付き合ってよ。どうせ暇でしょ?」
少し面白くない、と感じたのは、椎本に胸中を見抜かれているような気がしたからだ。
あの時の椎本に出来なかったこと、それ故に今のアタシにとっては打算でしかない、自己満足に近いこと。
「……本当に、卑怯者だな、アタシは」
アタシは小山内に手を差し伸べたい、と考えていた。
それは彼女への同情でも、優しさでも、好意でも無く。
薄っすらと、それでもどこまでも深く根を張った後ろ暗い気持ちを、罪悪感という奴を和らげる為に小山内を利用しようとしているのだ。
それは卑怯と言わず、何というのか。
自嘲するように呟くが、卑怯者だと自身を罵るアタシは、その罵りすらも自己防衛の手段の一つのような気がして。
小山内の抱える事情とやらが、重ければ重い程、私の心を蝕む罪が軽くなるような、そんな自分勝手な救いを、求め始めていた。
「んで……今日の夕飯は何?」
そのまま夕方まで二時間ドラマの再放送を見てから、椎本の買い物の付き合いでスーパーに来たアタシは、カートを押しながらアレコレと商品を選ぶ椎本に訊いてみる。
「どうせこんな時間までいるんだから、塚本も食べてくんでしょ?大人数なら、鍋が安上がりだし、鍋の予定だよ」
「お、じゃあご馳走になろうかな」
親には友達の家で夕飯食べて行くと連絡しておこう。今更帰りが遅いくらいで心配するような親ではないけど、念の為。
「あ……そうだ」
帰りが遅いで思い出す。
どうせならアイツも誘ってみよう。どうせ疲れ切って飯を作る気力もないだろうし。
「半分出すからさ、アイツ誘おうぜ」
「小山内さん?いいよ、じゃあ少し多めに具材買おうか」
アイツと言っただけで、すんなりと椎本はアタシが誰を示したのかを見抜いたことは、少し不本意だった。
アタシはそんなにわかりやすいのだろうか。
「……本当、塚本は変わんないね」
手に取った白菜二つを見比べながら、椎本は言う。
それは、過去と今のアタシを見比べているように思えた。
だとすると、
椎本はいつのアタシと比べているのだろうか。
時折、楽しい時間が嫌になる。
誰かを見捨てたアタシが、そんな時間を過ごすこと自体が許されない行為のような気がするのだ。
人の目を気にしないで生きてきたアタシだけど、その分、神様のような天上にいる超常的な存在の目は人一倍気にして生きている気がする。
もし死後に生きていた間の罪を精算しなければいけないとするのなら、アタシのような卑怯者は多分きっと、誰よりも罪深い存在なんだろう。
生前に犯した罪を償わずにのうのうと過ごしているのだから、それは何者よりも赦し難い存在だ。アタシ自身、そう思うし、そうでなくてはこの世の中は不公平すぎるとも思う。
だからこそ、裁かれる前に、許しを乞うように、今のうちに。
何を成さなくては。
そんな使命感と義務感の混ざり合った、心に糸引く粘っこい感情が、アタシに付き纏っていた。
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