第1話 影は融解と共に ②

 朝日が、痛い。

 容赦無く叩き込んでくる強い朝焼けは、一晩たっぷり労働した私達にとっては毒でしかないようだ。

「……そこにあるパン、好きなだけ持って帰っていいらしいぜ」

 バイト用の休憩室に置かれた幾つかの段ボールには、包装されたパンがいくつも詰め込まれていた。何人かは慣れたように持ってきた鞄にパンを入れているので、時給云々よりも終わり際に好きなだけ貰えるパンの方が魅力という人も多いのだろう。

 正直言って、徹夜明けのグロッキーな状態でパンなんて食べられる体力は残ってないが、明日以降のことを考えて、鞄に入るだけパンを詰め込むことにした。こんなことなら、もっと大きい袋を持ってくるべきだった。

 とはいえ、菓子パンと惣菜パン合わせて二十個近く持って帰れるので、暫くは食費も浮くだろう。

 そんな私の様子を見て、少し笑ってから塚本も同様にパンを詰め込み始めた。

「……じゃあ、帰ろうか」

 お互い覚束ない足取りで帰宅の途に着く。


 バイト先の食品工場から曙荘までは、およそ歩きで二十分の距離だ。まだ自転車も無い私に付き合って、塚本も自転車を手で押しながら隣を歩いていた。

「三月とはいえ、この時間はやっぱり寒いね」

「でも、ついこないだ東北から出てきたんだろ?あっちと比べると大したことないだろ」

 八時間も一緒に居たので、私達は色々なことを話した。私が東北の片田舎出身であることとか、お互いの趣味だとか、好きなドラマだとか映画だとか。

 お互い隙を埋めるためだけの会話だったというのに、この粗野にも見える塚本という女性は、意外なことにちゃんと交わした会話の内容を覚えていたようだ。

 流石に失礼すぎる印象だとは自分でも思っていたが、何故かそれだけの事なのに、少し嬉しかったりする。

「寒いものは寒いよ。そういえば、塚本は家遠いの?」

「ん?んー、このまま家まで帰るのダルいし、柊の家で仮眠しようかなって思ってる。ほら、アイツらにお土産もあるしな」

 ああ、実家暮らしと聞いていたのに、あんなに大量にパンを持ち帰ったのには訳があったのか。

 友達想いというか、なんというか。

 こんな朝方に寝させてくれと訪ねられたら、少し嫌だけど、あの大量のパンを貰えるのなら多分私でも許してしまう。

 同じような経済状況(と、私が一方的に勝手に思っている)椎本さんのお宅も、多分歓迎するだろうな。

「仲、良いんだね」

「柊とはな。B級映画同好の士だし。椎本の方は……そうだなぁ、今でこそそれなりに仲良い方だとは思うけど、少し前は最悪だったな」

 ……まぁ、付き合いが長ければそういうこともあるのだろう。

 喧嘩していたとか、そういうことまでは分からないけど、ハッキリと仲が悪かったと言えるのは——勝手な言い分になってしまうけど——健全なように思える。


 私の村は、大人達の陰湿な雰囲気が伝染したかのように、子供も似たり寄ったりだった。

 多分、全員が全員互いに思うことはあったのだろうに、表面上は仲の良いフリをして、思ってもいない事を口にしていた。

 私はその空気が反吐が出るほどに嫌いで、彼らに関わらないように生きてきた。愛想良くして生きる事が多分一番上手な生き方だったのだろうけど、幼い頃の私にはそれが出来なかった。だから、孤立していた。

 多分彼らにとって私のような人間は恰好の標的になり得る存在だっただろう。

 両親すらもいじめられ気味だった私に対して、慰める訳でも無く『もっと上手く生きろ』と、叱るような人間だったので、多分そういう考え方が蔓延していた村だったのだ。

 だからこそ——快活な性格で、誰に対してもハッキリとモノを言う一際村の嫌われ者だった優里に対して、私は憧れたのだ。

 村の誰より、それどころか私の両親なんかよりもずっと、私の信頼を勝ち得たのが、優里だった。

 その憧れや信頼が恋に変わるのは必然だったに違いない。

 或いは、依存にも近かったのかもしれない。

 だけど、彼女は私の前から消えてしまった。私を置いて、一人で去ってしまった。

 何度忘れてしまおうか、と。

 何度恨んでしまおうか、と。

 ——出来るはずが無いのに、そうやって脅せば案外ひょっこり彼女が帰ってくるような気がして。

 そんな虚しい心の影だけが、私の中で蠢いていた。



「——小山内?もう着いたぞ」

 ハッ、と塚本の言葉で思考の海から浮き上がる。つまらないことを思い出していたようだ。もう今更考えたところでどうしようもない記憶に足をとられても、どうにもならないというのに。

「ゴメン、ボーッとしてた」

「ま、あのバイトの後じゃそうなるわな」

 カラカラと笑う塚本は、歩いている内に元気を取り戻したようで、バイト終わりのげんなりした様子から一転して不思議と疲れを見せていなかった。

「おおい、柊。起きてるか?」

 インターホンを鳴らさずドアを開ける塚本。どうやら隣人達は朝五時だというのに、もう起床しているようだ。そして、塚本はそれを知っているのだろう。

「何ですか朝っぱらから……。楓姉さんは若菜姉さんの家に泊まりに行ってますよ」

「別にアイツに用事はねぇよ。しかしこんな朝早くから勉強なんて、本当真面目だなお前は」

「日中は私も用事とかバイトがありますからね。夜か朝しか勉強出来ないんですよ。で、何の用事ですか?」

 起きていたとは言え、露骨に迷惑がる柊ちゃんはジト目で塚本を睨む。私は気付かれないように部屋に戻ろうかとも思ったが、ここまで一緒に居た塚本に挨拶なしに引っ込むのもどうかと思って、成り行きを身守ることにした。

「日雇いのバイトしてたんだよ、一晩中な。ほら、お前んとこの隣の小山内も一緒だったんだ」

「ご、ごめんね……朝早くに」

「……あ、おはようございます、小山内さん。朱音先輩に捕まるなんて不運ですね」

「言うようになったなぁ、柊。でもこれ見て、同じことが言えるかな?」

 塚本は、柊の部屋の玄関に鞄の中身を広げる。その全部が何故か菓子パンだった。

「……朱音先輩の魂胆は分かりました。この菓子パンを渡す代わりに、部屋で仮眠させろってことですよね」

「流石話が早いな」

 呆れながらも、菓子パンを一つ手に取って早速口に含んでいる柊ちゃんはどこか機嫌が良さそうだ。

 甘い物好きなんだろうか。

「昼頃に天梨が遊びに来ますけど、それでいいならウチで寝ていってもいいですよ」

「お、助かるな。じゃあ小山内、そういう訳だから、またな」

「う、うん。またね。柊ちゃんも、おやすみ」


 あの村とは違う。

 互いに言いたいことを言える、友人だと嘘偽り無く表現出来るだろう二人を見ると、何故だろうか。

 心の中で蠢動する影が、少しだけその動きを鈍くしたような。心臓に伸びる銀色の糸を少し緩めたような。

 そんな気がしていた。

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