第1話 影は融解と共に ①

 融けていく。

 影の様な平面的な黒い何かに、心臓から伸びる銀色の細い糸の様なものが、融けていく。

 肋骨が僅かに鋭い痛みを訴えているが、それでも粗雑な紛い物の気持ちに縋り付いてしまうのは、多分私が不出来な人間だからだ。

 可憐に涙で眼を腫らすなら、まだ微笑ましいだろう。

 だが、私の胸を締め上げる憎悪にも近しいこの想いは、そんな可愛らしいものでは決して無い。

 厚みは無いのに、どこまでの深く底の無い暗闇の様な、単純で報われることのない、ドス黒い感情だ。

 それが心臓の奥から鋭い痛みを持って避諱するように、冷たく反応する。

 あの頃夢見た二人の旅立ちは。

 今ではたった一人の逃避行に早変わりしている。今でも隣に優里が居ないのは信じられないけど、それでも私は希望を持って旅立つことよりも、絶望から逃げ出すことを選んでしまったのだから、仕方ない。


 限界集落と蔑んでも良い、あの陰鬱な村から抜け出して、大都会とは言わずとも地方都市には違いない海と山の狭間にあるこの街に越して来て五日が経過していた。

 ほぼ休みなく日夜勤労に励んだおかげで、贅沢品には違いない電子レンジの購入にまで漕ぎ着けたことで、漸く生活の基盤が整った。

 五日間で、布団、冷蔵庫、炊飯器など生活必需品を購入できたので、取り敢えずは落ち着いて生活ができる。

 家賃に食費、スマホ代から電気、ガス、水道代。月に支払わなければならない金額を計算しても、残りは安定して働ける長期のバイトを探しても良い頃だろう。

「とは言っても……」

 購入したばかりの家電類は全てリサイクルショップで購入した安物ばかりだ。

 いずれはキチンとした新品も欲しいところだ。

 そんなことを考えていると、インターホンが鳴る。

 引っ越したばかりだし、この家を訪ねる知り合いなんて居ないはずだ。そうなってくると、恐らく何かしらの勧誘だとか訪問販売だとか、そういう類だろう。

 そう考えて居留守しようとも思ったのだが、何故見知らぬ人間のためにこっちが息を潜めて居ないフリまでしなければいけないのか、と馬鹿らしくなったので玄関を開ける。

 もし勧誘だとか訪問販売ならきっぱりと断ればいいだけだ。そんなことを考えて勢いよくドアを開けた。


「すいませんいきなり。あ、これ作り過ぎたんで、よかったらどうですか?」

 淡々と予め用意していたかの様な台詞を言う小柄な少女が立っている。

 確か隣の——、

「ええと、椎本楓さんの妹さん、でしたっけ?」

「……そういえば、あの時自己紹介してませんでしたね。叶柊といいます。以後よろしくお願いします」

 うん?

 お隣さんの姉の方の苗字は椎本だった筈だけど……。

 まぁ、複雑な事情でもあるのだろう。余計なことに首を突っ込まない、詮索しない。これも、真っ当に生きる上で重要なことだ。

(それに周囲と少し違うってだけで、色々勝手に想像すると、それこほあの村の連中みたいになってしまう)

 勝手に想像して、勝手に弾劾して、勝手に迫害する。そういうのが嫌いだから、私は村を出たのだ。

「うん、よろしくね。私、春から大学一年生なの。柊ちゃんは?」

「私は四月から高校三年生です。大学一年生ってなると、姉と同い年ですね。ちなみにここら辺の大学となると、もしかして千倉大学ですか?」

 柊ちゃんの言う通り、このアパートの最寄駅から三駅ほど隣にある千倉大学が私の進学先だった。国立大で私は文系の経済学部を選択していた。

「そうですよ。大学の近くだと家賃が安い物件が無かったんで、この曙荘に越して来たんです」

「それなら、姉二人も来年から同じ大学に進学するので、もし良かったら仲良くしてあげて下さい」

 姉二人?

 椎本楓と名乗ったあの人以外にもう一人、姉がいるのか。それに、二人ともということは、双子か、それともどちらかが浪人でもしたのか。

「じゃあ、三人暮らしだったんですね」

 と、まぁ気になるには気になったけど、深く立ち入らない様に気をつけて差し障りのない返答を返すことにした。

「あ、いえ、二人暮らしです。もう一人の姉は、別に住んでますよ。まぁ、結構な頻度で遊びに来るので、多分その内会えると思いますが。あ、そうでした、すっかり話し込んでしまって申し訳ありません。これ、どうぞ」

 手渡されたのは乳白色のタッパーで、外からは何が入っているのかよく分からないが、そぼろの様な挽肉料理のようだ。

「ドライカレーです。レンジでチンしてご飯に乗せると美味しいですよ。では、これで」

「あ……うん。ありがとう、柊ちゃん。お姉さんにも、よろしく伝えておいて下さい」

 柊ちゃんの可愛らしい頷きを見守ってから扉を閉める。

 三人姉妹で、姉妹なのに苗字が異なっていて、それで別々に暮らしている。

 一体どういう事情か重なればそういう状況になるのだろう。

 田舎の人間特有の好奇心が首をもたげていたが、それを何とか押し込んで、考えない様にした。

「——ま、人それぞれ事情があるんだろうね」

 テレビも無ければラジオすら無い部屋で、一人そう言いつつ気分を変える。

 買ったばかりの冷蔵庫に貰ったドライカレーを入れてから、スマホを手に取る。

 パソコンやテレビなどの娯楽が無いこの部屋で、無意味にボーッとしてるのも無駄だ。取り敢えず、長期バイトは後で探すとして、今日も日雇いのバイトに精を出すとしよう。



 ◇


 本日の仕事は近くの食品工場でのライン作業だった。同じように春休みで暇を持て余した同年代の若者達が三十人ほど集められている。

 私に振り分けられた仕事は、流れてくるあんぱんの上にひたすら黒ゴマを数粒乗せるだけの作業だった。

 これを朝四時までやるのだから、なかなかに辛そうだ。とはいえ、別のグループはライン上を流れるサンドイッチが倒れていたら直すだけの作業なので、比較すると多少はマシか。

 支持された持ち場に移動する。時刻は夜十時を回っていて早くも眠くなってきたが、気合を入れて仕事をこなすか、と大きく伸びをすると脇腹を突かれた。

「よ、こんなところで会うなんてな」

 ん?

 と隣を見る。明るい髪色のショートヘアが見えたが、私の視線からだと頭頂部しか見えない。視線を下げると、引っ越し当日に隣人の柊ちゃんを訪ねて来ていた彼女の友人がそこにいた。

「あ、偶然ですね。ええと……」

「ん?ああ、そういや名乗ってなかったな、アタシは塚本朱音だ。まぁ知り合いがいて良かったよ。適当に駄弁りながら仕事しようぜ」

「え、あ、はい」

 流れ始めたアンパン達だったが、私一人でライン上全てのアンパンに胡麻を乗せる訳ではなく、数人で分担するので、想像よりも遥かに余裕のある作業だった。

「えと、塚本さん、柊ちゃんの友達ってことは高校生だよね?こんな深夜バイトして大丈夫?」

「……アタシは春から大学一年だよ。ほら、隣に椎本が住んでるだろ?アイツとおんなじ大学に行く予定だ」

 ……ん?

 小柄で少し幼い見た目なので、大学生というには少し違和感があるが、それは一旦思考の隅に置いておくとして。

 椎本さんと同じ大学ということは、彼女が柊ちゃんの言うもう一人の姉なのだろうか。苗字は違うが、柊ちゃんと椎本さんだって違うので、そういう可能性もある。

「あ、っていうことは、柊ちゃんのもう一人のお姉さんですか?」

「へ?あははっ、違う違う。柊の言うもう一人の姉とは友人だけどな」

 ううむ。なんというか、いよいよ複雑になってきた。人物相関が、既によくわからないことになっている。

 あ、でも、確か初めて会った時、椎本さんが塚本さんのこと友人だと言っていたな。うっかりしていた。

「アンタ……ええと、小山内さんだったっけ?何歳なんだ?」

「多分同い年ですよ。私も春から、椎本さんと同じ千倉大学に通う予定ですから」

「おっ、マジか。じゃあ、アタシと同い年じゃないか。それならアタシのこと、塚本って呼び捨てでいいよ。同い年に敬語使われるの、あんま好きじゃないんだよな」

 ……なんというか、さっぱりとした性格のようだ。竹を割ったような、爽やかさがある。

 私の故郷には居ないような、実直さが彼女にはあった。

「それなら、塚本って呼ぶね。塚本の学部は?」

「アタシは経済学部。アンタの隣の椎本が文学部で、柊のもう一人の姉は商学部だな」

「じゃあ、塚本は私と同じ学部なんだね」

「小山内も同じ経済学部か。いやーよかった、友達一人も同じ学部にいないからさ、少し不安だったんだよ」

 心の底から、本当にそう思っているのだろう。

 知り合って間もない私ですら、確信めいてそんなことを思えるのだから、きっと彼女は素直なんだろうな。

 何となく、物事を悲観的に見てしまう私にとって、彼女のような明るい人間は丁度良い存在なのかもしれない。

 そんなことを思った。


 工場特有の高天井から照らす照明が生み出した幾つもの影が薄く感じられたのは、塚本朱音という存在のおかげなのかもしれない。

 私と彼女の影は、重なり合っても色濃くなることは無かったのだった。

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